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「怪物」を乗り越える方法——アドベントカレンダー2022

The 21st century Da vinci Ricky 滝本力斗[17日目]

古今東西の文化記号化:井筒俊彦とエラノス会議(2022.11)

 The 21st century Da vinciの発明家Rickyです!100BANCHに入ったのが2021年の11月。1年なんてあっという間でしたね。当初はプロダクトの社会実装という名目で入りましたが、発明家として活動するのが良いと西村さん(メンター)にアドバイスを頂き、「発明」を深める日が続きました。その活動の中では研究開発費や時間、労働などの課題にぶち当たりました。そもそも「発明家」という職業がないことを踏まえればこの領域は自我作古、新しい道をつくることに他なりません(たいへんだーーー!!!)。そうなるとそもそも「発明」とは?ってなるわけですが、これもまた新しい領域で…深く険しい道が続いております。このような一度ハマると出れない沼、厨二病と呼ばれる我々に伝わる秘伝の言葉があるので引用します。

「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」(Friedrich Nietzsche『善悪の彼岸』)

 まさに!「ミイラ取りがミイラになる」とはまた向けられる対象が違うのではとボクは思います。「発明とは何か?」という巨大な怪物に挑もうとするが、それに飲み込まれてしまう、発明とは何かという問いに答えが出せなくなってしまうという状態です。そもそもこの問いが何を持って「答えた」ことになるのか定義することも難しい。結局納得感か実証できるかみたいなところだとは思いますが、このふわふわ状態が人間を突き動かしてきたのは間違いないのではと思うのです。すべての学問の基礎たるPhilosophy(哲学)の語源がなぜ「知を愛する」なのかずっと考えていましたが、この知りたい・答えを出したいという「好奇心」が突き動かしているというエネルギーであるということを指しているのではないかなと思うのです。提唱者のアリストテレスが「原因」に注目して哲学を構築したように、人間の本性(自然的なこと)を「知を愛する」ことにおいて、最高善に向かうことを説いたのも納得できそうです。

すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。(Ἀριστοτέλης『形而上学』

この文章からはじまるのは非常に興味深いと思います。

自己の複製と共に始まった2022(2022.1)

と、言うことで知ることを欲してしまったことに気づいた私は怪物の道をたどるのでした。それは答え(出口)がわからない迷宮。人生それ自体のことです。これを一般的に「悩む」と言います。悩むことはとても興味深いことです。私が思うに悩んでいる状態というのは「下ごしらえ」と同じだと思うのです。つついたり、しばったり、くっつけたり、混ぜたり、伸ばしたり。しかし下ごしらえというのはいくらやっても完成品にはなりません。そしていきなり焼こうとか、煮ようと思っても想像したものになりません。これは準備が完了していないからだと思いますが、一体何が足りないのでしょうか?経験則として思い浮かぶのは「発酵」です。

 多くの発明家に共通するものがあります。それは発想、ひらめきの瞬間です。ひらめきとは不思議なものです。ある時、全てが繋がって「これだ!」というものが見つかる。日本語では直感とか直覚などと呼ばれ、重要視されてきました。日本における禅に注目したジョブズの言葉は示唆的です。

You have to trust in something, your gut, destiny, life, karma, whatever. Because believing that the dots will connect down the road will give you the confidence to follow your heart. Even when it leads you off the well-worn path, and that will make all the difference(Steve Jobs, “Steve Jobs’ 2005 Stanford Commencement Address“)

ここで注目すべきなのは点と点をつなぐことではありません。その過程です。ジョブズは大学の中退後に訪れた書道の授業で学んだことが10年後のMachintoshのタイポグラフィに活かされたということです。これはつなごうと思ってつなげるものではありません。放置して、発酵させる。そしてあるタイミングが訪れた時にそれは熟成されることになるのです。その瞬間を逃さずに捉える、調理する。そうするとある段階での「完成」が生まれるのです。ここで脳が実際にどのように働いているのかということに関しては認知科学、意味ネットワークなんて呼ばれる領域で研究されています。

 ということは、「悩む」という状態にはある意味、キリがないことがわかります。下ごしらえして悩んでも、それを発酵させても、結局はタイミングというものによって価値が見出されるわけです。これを過ぎると腐敗するかもしれません。しかしながらそのタイミングはなかなか掴めないものです。それは社会という複雑で不確定要素の強い機構に支配されているためです。

100BANCHで発明の研究(2022.1)

だからこそもしも「生産的に生きる」ことにこだわるのであれば、計画を立てキリをつけなくてはいけません。そしてこのキリは決して破棄ではなく留保であることを知らなくてはいけません。

「悩む」ことの魔性、そしてそこに必要なことを上記に述べてきました。その魔性に取り込まれず、生産的に 生きたいのであれば、計画が必要になります。計画とは自身に制限をかけることです。人間は本来自由です。しかしながら社会的な要求や自己実現により自身に制限をかけます。それが計画です。自由を享受したいのであればぼーっと生きればよいのです。しかしながら市場経済の一部に埋め込まれている私たちは、生計を立てることや社会的役割を求められることになります。だから「悩む」という永久迷路に留まってばかりではいられません。それを支えるのが計画です。

 計画というのは時間の固定であることは確かです。自由な自分の時間を社会的な時間(西暦、日付、JSTなど)に固定します。そしてその固定した時間に意味付けを行うのです。この時間に何をやるかとか、終わらせるかとかです。そのようにして自身に制限をかけていきます。そしてその計画の理由は社会のタイミングに合わせるためと言えると思います。もうお金が尽きるから働かないといけない。スーパーが閉まるから早めに買いに行かないといけない。締め切りに間に合わせないといけない。などです。これらの時間拘束は現在の社会秩序の結果だとは思います。縛られたくないのであれば、どこかの前提を覆さなくてはなりません。それがある意味フレックス制とも言えそうです(小さな規模ですが)。

中高生への出張授業(2022.4 – )

 社会で生きることを前提にするのであれば私たちは社会に強く依存します。それは大きく社会から享受できるものと社会に還元するものとに分けられます。享受したものには鮮度があり、我々はそれを常々消費します。食べ物やお金、洋服、消費財などです。時間とともに劣化します。それらを得るには還元が必要です。それを生産とも言います。還元と享受が相互にやり取りされることによって交換が成立します。しかしながら大きな生産には時間当たりの消費以上の享受が待っています。享受できるものは時間とともに消費されていく。だからそれ以上の生産を行う。短い時間で価値あるものを生産すること、社会原則から社会生存の定理が導き出されるわけです。

学会で発明論について発表(2022.6)

秩序とは不確定性の排除です。だから社会はひとりで生きるよりも不確定性が少ないです。森に行って食べ物が見つからなくても社会に頼ることができます。だからこそ社会生存の定理というものが導き出されるわけです。そのため社会で生きるには計画が必要になります。自分の生存エネルギーの消費がどれくらいか、そのエネルギーから大きな価値を生み出すにはどうした良いか、それにつきます。プロジェクトには資金と期間が当てられ、チームはその有限性(制限があるということ)の中で享受を上回る還元をしなければなりません。だから計画が必要なのです。悩むは不確定性の最たるもの。不確定性の排除が求められる秩序において、悩むとは本来除去されるべきことなのです。ここに生産的立場における文章を引用します。

「悩む」というのは「答えが出ない」という前提に立っており、いくらやっても徒労感しか残らない行為だ。僕はパーソナルな問題、つまり恋人や家族や友人といった「もはや答えが出る・出ないというよりも、向かい続けること自体に価値がある」という類の問題を別にすれば、悩むことには一切意味がないと思っている(そうは言っても悩むのが人間だし、そういう人間というものが嫌いではないのだが…)

 僕は自分の周りで働く若い人たちには「悩んでいると気づいたら、すぐに休め。悩んでいる自分を察知できるようになろう」と言っている。「君たちの賢い頭で10分以上真剣に考えて埒が明かないのであれば、そのことについて考えることは一度止めたほうがいい。それはもう悩んでしまっている可能性が高い」というわけだ。(安宅和人『イシューからはじめよ』)

ナナナナ祭で発明曼荼羅(2022.7)

ですがジョブズの例のように悩み(すぐにその物事の価値が生まれるわけではない状況)から生まれた生産には大きな価値がある場合があります。我々はそれを創造性などと呼び重要視します。これが単なる肉体労働だけではなく、クリエイティブに生きろというメッセージになります。しかしながら悩むことの熟成のタイミングを見極めるのは難しい。そこに確実性を与えるため、デザイン・アイディアツールなどが開発されてきました。しかしこれも絶対的なものではありません。

 デザインツールが応えることができるのは相対的真理みたいなものです。つまりその時々の情勢・環境によって生産物の重要性が変わってくるというものです。このような場合は情勢がつかめているうちに生産物を出す必要があります。これがリーンなどと呼ばれるものです。素早く生み出し、検証し、行動する。ブレストなどが通じる領域は相対的真理に限ります。ではそれが通じないものは何でしょうか。絶対的真理です。イデアと呼ばれてきたものに近いと思います。例えば宇宙は何でできているかと言ったときに、ブレストしてたくさんのアイディアを出して導き出されるものではないはずです(インスピレーションは与えますが)。これは絶対的真理は論証されるべきものだからです。

作り方のない自由研究教室(2022.9)

演繹的というべきでしょうか。数学に例えるとわかりやすいです。「1+1は何ですか」と言ったときにブレストしてそこから一つずつ当てはめるということは通常しないと思います。それは前提が定義されているため演繹的に導き出すことが可能だからです。この辺の議論は数学基礎論などで扱われてきました。ただこの絶対的真理、論証できるからと言って方法が導き出されるわけではありません。つまり材料はあるけど、どう調理すればよいのかわからないというものです。そこではもちろんアイディアを出して試行錯誤することはあるでしょう。ですがそれ以上に強力なのが直覚です。すなわち悩みの熟成です。考えついた先にふと訪れる。偉大な数学者と呼ばれてきた人たちに顕著な行為です。

 これらからいえることは何でしょうか。社会的には悩むことはふさわしくない。重要なことに気づくには悩むことが必要だ。この両者を両立させることが創造性の扉なのではないでしょうか。だからこそここで提言してみようと思います。

京都で臨済禅の修行(2022.8)

はじめに必要な段階を述べると、「①汗をかくまで悩むこと(暫定案)」「②しばらくほっておくこと(発酵)」「③ふと来た時に捉えること(熟成)」になります。これらを計画化します。すなわち相対的真理でない物事を扱う場合はある時間のうちに①をなし、ある発酵期間として②を設定する。この時に③が来てたら③を、来ていなかったら①で進めます。そしてある時、③を見つけます(ひらめき)。これが来たら、その瞬間はそっちにかけるべきです。相対的真理に関しては既存のデザインツールでうまく扱えるでしょう。しかしながら絶対的真理、多くの場合は規範やルール、前提を指しますが、このような場合はひと工夫が必要そうです。

 暫定というのは仮説のことです。それを検証して支持できればそれは真になるでしょう。違うのであればまた何でも良いので立てればよいのです。経験主義の伝統を引き継ぐ我々にとって答えというのは、仮説を支持するか棄却するかということだけで成り立っているのですから。

レオナルド・ダ・ヴィンチの生家へ(2022.10)

なぜ発酵が有効に働くのか。これはいわゆるオートポイエーシス、自己組織化だと思います。悩んでいる対象が持つ魔力は、自分だけを飲み込むわけではなくその他のものとも強く結びつこうとします。だから一度脇においておいても、自動的に答えにたどり着こうとするのです。ですので悩んだら、上記を意識してみてはいかがでしょうか(という自戒ですが)。

 さて今まで見てきたように、悩みとは途方もない「深淵」という名に相応しい場所です。いつまでたってもたどり着けない。ゼノンのパラドックスなんかを思い起こさせます。だから仏教ではそれは煩悩だ、妄想だ、と言ってすべて否定するわけです。とは言っても我々は俗世に生きます、社会に埋め込まれています。何かしらの真理、それは生きる意味だとか、幸福だとか、愛だとか、そういったものを求めると現時点での正解が常に現れることになります。ですがその悩みもどこかでコレだ!となるのかもしれないですね。

Abema Newsに出てみたり…?(2022.12)

私が「発明とは何か?」という怪物に向かうとき、忘れてはならないモノがあると気づきました。それは自分の内から出てくる感覚、実感。それは私にとっては「好きだ」ということでした。発明という姿は掴めないけど、自分の内にある「好きだ」という感覚は絶対だ。19世紀にはそれは「現象学」と呼ばれることになりました。

 我々はどこまで問い詰めても最終的には「信仰心」に行きつくはずです。数学でさえ、それは数への信仰であり、公理への信仰であります。科学も機械的自然観の信仰。大企業やスタートアップなんかはVisionへの信仰といえるでしょう。哲学者のホワイトヘッドはそれを「秩序への信仰」と表現しました。

ニコラ・テスラを超越できるか(2022.11)

前提ある限りどこまでも「信仰」です。そこでの善悪の判断は結局「実感」、好きだから、愛しているから、楽しいから、などになるのでしょう。みなさんにとって唯一疑えない実感は何でしょうか。それが怪物を乗り越える鍵になるはずです。

 

この記事は100BANCHにまつわる様々なストーリーをメンバーやスタッフが紹介するリレーエッセイ企画です。他の記事はこちらのリンクからご覧下さい。

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