
Octopus Project
未知なる生物「蛸」から、人の社会を問い直す
街中でなにか「未知のもの」と出会ったら——あなたはどうしますか?
「藝術探検家」として、未知との遭遇を探究しつづける野口竜平。彼が手がけるOctopus Project (現在「Octopus ∞ Projects」として活動)は「蛸(タコ)みこし」という唯一無二の装置で、未知を未知のまま受け入れる場を生み出しています。それぞれの脚にバラバラな知性を持つと言われているタコのように、異なる人々が集まり、バラバラなまま共に担ぐ。そこに生まれるのは、共同体ならぬ「共異体」であり、言葉を超えた「タコー(多幸)感」です。
固定された意味を求めず、ただ未知と遭遇する。その態度の先に、どんな世界が広がっているのでしょうか。蛸みこしと野口の探検譚をお届けします。
8本の脚を8人で担ぐ、野口の作品「蛸みこし」。
—— はじめて「蛸みこし」を見たときに、まさに「未知のもの!」という感想を持ちました。
野口:そうですね。僕が「タコ」をモチーフに選んだ理由の一つは、人類にとって昔からタコが「訳のわからない」ものだからです。海外では悪魔とされたり、日本にもタコの伝説っていくつもあるんですよ。生態系も何もかも、人類にとって未知の生き物であり続けているのがタコだと思います。
僕は、未知のもののことを「隔たり」という言葉で表現しています。隔たりは、距離や時間、あとは人の内面とか思想にも、とにかくたくさん存在しています。それを無理に理解しようとすることは、逆に失望や分断につながることもある、もったいないことなんじゃないかと思うんです。
理解できないものに出会ったら、隔たりを隔たりのまま受け止めて「遭遇の場」として捉える。隔たりから想像することが、人間に残されたロマンだと思っています。そんな感じの僕の考えが蛸みこしの根底にありますね。
—— 野口さんが「未知」を探検しはじめたきっかけは何だったのですか?
野口:大学生の時に、「自転車一人旅」をしたんです。それがOctopus ∞ Projects含め、全部の活動のはじまりのように思います。それまでは、一人で旅に出たことなんてなかったので、その旅は未知との遭遇の連続でした。
—— はじめての一人旅ではどんな経験をされたのですか?
野口:東京から仙台まで、ひたすらママチャリで進む旅です。大学に入学して初めての夏休み、同じ美大のみんなは、旅行なんかに行っちゃうわけですよ。僕はそもそも美術の世界には興味がないままに入った大学でしたから、周囲との熱量の差を感じていました。テニスが好きで、僕はテニスのコーチになるつもりだったんです。なのでとりあえず大学で教職をとって、昼は教員、夜はテニスの鬼コーチになろう……って。
そんな感じで夏休みを迎えて、「僕は所持金7,000円くらいしかないけど、バリバリの美大生たちに負けない経験を絶対に持ち帰るんだ!」と、とりあえず北に行こうってチャリを漕ぎ出したんです。
当時は震災の影響で計画停電をしていて、いっさい灯のない夜中の山道をひたすらママチャリで走りました。しかも僕、旅をしたことがなかったから、所持品も見当外れの物ばっかり持っていたんです。余計なものを持っているから、どんどん落としたりなくしたりしてしまって、最終的にはデジカメもなくしてしまいました。
—— 何かこう、悶々とされていたのが伝わります。
野口:東京に簡単に帰れる距離ではないですし、夜の山中で限界まで心細くなったとき、母に電話をしたんです。その時はまだ、携帯電話を落としてなかったんで(笑)
そうしたら母は電話口で、「もうちょっとやってみれば〜?」って、結構楽観的な声で僕に言ったんですよ。いま思うと、電話をかけた時はまだ、子供の気持ちが残っていたんだと思います。でも母にそう言われた瞬間に、プツンと。生まれ育った場所に根付いた魂みたいなものが切れて「自由に進もう」「この状況に遭遇していることを受け入れて、楽しもう」って。それが僕の“探検”の始まりです。
—— もしその時、お母様に「帰っておいで」と言われていたらどうしていたと思いますか?
野口:間違いなく帰っていたと思います。それで、もう探検はしていなかったんじゃないかな。その時に、親のコントロールから離れた自覚を持ちました。夏休みが終わると、大学では休み期間中の旅行の話をたくさん聞きました。でも僕は、お金をつかった旅行よりも、自分の「ママチャリ旅」に満足感がありました。予期せぬ出会いとその充足感みたいなものが、忘れられなかったです。
—— それから、探検にのめり込んでいったんですね。
野口:はい、途中で早稲田大学の探検部に参加したことも大きかったです。僕は自転車の旅を皆に自慢していたら、早稲田大学の探検部に彼氏がいるっていう友人に鼻で笑われて(笑)。どんなもんなんだ?って、飛び込んでいったんです。
早稲田の探検部では飲み会で、みんなそれぞれの“探検観”を鍛えていくところでした。「探検とは何か」って禅問答のようなことから入るんですよ。「ヘリコプターで山に行くことは探検と言えるか?」って、大真面目に考えます。するといろんな切り口があって、いろんなベクトルの探検が存在していることがわかって、ますます面白いなって思うようになりました。
—— 野口さんの見いだした“探検観”は何かありましたか?
野口:探検ってもしかしたら「コンセプチュアルアート」に近いんじゃないかなと思いました。たとえば、人類にとっての芸術がもうある程度やり尽くされている感じのするいまの現代アートと、地理的にもう開拓され尽くしてしまっている中で、あえて「探検」をする状態って似てませんか?
探検と言っても、やってることは山を登るとか、何か意味をつけて歩くとかの体験なんですけど、創造的であんまり人がやらないことをやって、探検の最中に自分でもいろんな感情に遭遇するし、その行為自体が意思表示になる。それを受けて起こる社会的な現象も含めて、探検は「未知のものと遭遇する」仕掛けだと思っています。
僕は美大で学びましたし、パフォーマンスアートを中心に活動しているけれど、芸術とか美術の枠から出たところにも、魅力的な遭遇はたくさん転がっていて。そういうものを模索することを、僕は旗印的に「藝術探検」と呼んでいるんです。
—— 蛸みこしの現場ではどんなことが起きるんですか?
野口:そうですね……。実はその場で脚を持っている全員、何が起きているのかよくわかってないんです(笑)。現場にあるのは、全員わけがわからないからこそ起こる、いろいろな遭遇。そもそも脚を持つ人を8人集める段階で、人を誘うという実践(ワーク)が必要ですし、集まった8人の中でも遭遇が起きます。さらに、タコ化している状態の僕らと街ですれ違った人の心中にも「遭遇」が起きているはずなんです。
タコの脚になる体験って、個人と社会の関係になぞらえることができるんですよね。タコの生態の話なんですが、脚の一本一本それぞれが知性を持っているんです。蛸みこしはバラバラのことを考えたまま一緒にひとつのものを操って、自分って今どこにあるんだろう……みたいな不思議な感覚を味わえるんです。
—— よくわからない状況を作ることが「蛸みこし」の目的なのでしょうか?
野口:そうとも言えるかもしれません。僕は「主体の揺らぎ」と呼んでるんですけど、そういう状態が好きで、その状態を探検したいという感覚ですね。蛸みこしを通じて「意味がわかんない状況」をつくることが面白いと思っているので、僕自身が意味わからないなって思う方向にどんどん行っちゃうんですよ。そもそも僕は、タコが「未知の存在である」ということに魅力を感じているので、結局何なのかは、わからなくていいと思っているんですけどね。
ありがたいことに、Octopus ∞ Projectsはメンバーが増えていて。最初は僕ひとりでしたが、「蛸みこし」に音楽をつけてくれる即興ミュージシャンや、活動の様子を映像や写真で記録してくれるメンバーが増えました。写真家のメンバーは、その日のうちに体験者の感想も含めたZINEを作ってくれるんですよ。100BANCHでも興味を持ってくれる人が増えて、最近はDAJARE PRODUCTSの加藤さんが蛸みこしをキャッチコピーで表現してくれたり。それもひっくるめて全部「遭遇」です。
—— 「主体の揺らぎを探検したい」という言葉がありましたが、主体性を求められないほうが心地よいという感覚が、野口さんにはあるんですね。
野口:ありますね。「主体性の揺らぎ」を求めて藝術探検家として活動をしている側面もあります。蛸みこしに限らず、お祭りのお神輿も、つまりは「もの運び」なんですよね。フィジカルに物を運ぶ行為って、固定されている「これをやる意味」や「近代的自我」から逃げられるものでもあると思うんですよ。誰でも名前や肩書きを手放して、等しく運ぶ装置になる体験ができるんです。
—— 肩書きや名前を手放して一体化する体験はどんなことをもたらしますか?
野口:僕にとって、主体性から解放されるワークは、健康に生きるために必要なものなんですよね。以前は僕も主体性を必要なものと捉えていましたし、中学校の卒業式に担任の先生が「特別にならなくていいんだよ」と言っていたのを聞いて、そのときは全然ピンと来なくて「オレは何者かになってやるんだ!!!!」と思っていました(笑)。
でも、たとえば、なりたい自分になるために努力する!という発想は、素晴らしいと思うんですけど、たぶん理想と現実のギャップによって落ち込んだりすることも増えるでしょう。本来、人間って特別な個人にならなくたって救われる方法があると思うんです。
—— 蛸みこしが、理想と現実のギャップに悩む人の受け皿になり得るかもしれませんね。
野口:そうなんです。もともと蛸みこしは僕のメンタリティーから発生していて、自分の処方箋であり、遭遇のための道具でしたから。もちろん「特別な人」を目指すのも良いんだけど、別にそうでなくても救われる場を蛸みこしで作って、そこでは一体感も感じられる。意味わかんないものの中に一緒に入れてるっていう場面を見るときに、自分が救われるんですよ。バラバラな人たちが、もうなんかみんな楽しそうにしてる。僕はこれを「タコー(多幸)感」って呼んでるんですよ。
野口:蛸みこしを体験した人たちって、みんなやっぱり何かを感じていて、体験した人にしかわからない共通認識があるんです。それでやっぱり、感想を語り合いたいから、みんな今までの自分の経験と蛸みこしをやった10分ぐらいの経験を混ぜ合わせて話し始めるんです。
それぞれが全く違うバックボーンを持っていても蛸みこしという共通言語があるから、ひどい分断が起こらない。終わったあと、みんなかなり喋るんですよ(笑)。蛸みこしを使えば、全然違う分野の人たちと、たくさんの言葉を交わし合えるんです。こんなふうに、異質なもの同士をつなげるメディアとしてしっくりくるなと思います。
—— 蛸みこしは今どんな場所で活躍しているのですか?
野口:まず大分県では、蛸みこしを使った新しいお祭りをつくる試みがあって、今年で3年目になります。あとは地域おこしとして、アーツカウンシルしずおかで蛸みこしを使ったイベントを開催しました。静岡県内のいろんな場所で実施して、「アートプロジェクトというものがよくわからなくても、ひとまず一緒にやってみよう」っていう、遭遇のきっかけになれたと思います。
野口:あと意外なところでは、モーションキャプチャや心電図を使った実験にも蛸みこしを使ってもらいました。たとえば、盆踊りをしている人たちの心拍数がだんだん一定に揃っていくという現象があるんです。そういう生体の仕組みを研究している分野の方と一緒に何かできないかと話し合ったのがきっかけです。あとは、株式会社コクヨさんと、蛸みこしを用いた個人と社会の関係のあり方を研究する会をやったりとか。ほかにも演劇として蛸みこしをとらえて使ったり、最近では、大学の授業でも使っていただけることになったりとか……。
—— 想像以上に幅広い場で登場していますね。
野口:はい。あまりにも何にでも使えるので、蛸みこしの用途を3つに整理してみたんです。
まず、蛸みこしを体験した人たちが一致していく、つながるような不思議な感覚があるんですが、これを同期現象という切り口や、蛸の生態に照らし合わせて実験するのが「自然科学」。次に人間関係、法律やルールを見つめ直したり、会社のレクリエーションなんかに蛸みこしを使うのは「社会科学」。あとは芸術や文学ですね。たとえば、地域にあるタコの伝説を紐解いてお祭りをつくるのは「人文科学」。
この3つの捉え方で、普段関わりのない人同士のつながりを一気につくれる気がするんです。これからも蛸みこしがそういう異質なもの同士をつなげるメディア的な存在でいられるように、プロデュースして、ケアをしていくのが僕の役目です。