• イベントレポート

「発明如来蔵とはなんだったのか?誰もが発明家であることの提示」─ナナナナ祭2023を終えて

発明によってあらゆる制限の打破を目指すプロジェクト「The 21st century da Vinci」。制限を打破した先に、どんな未来のカルチャーを築くことができるのか。

ナナナナ祭2023では、空想は実現可能であることを伝えるブース「発明如来蔵 ー『空想が現実になる世界(解脱)』への提言ー」を実施しました。企画に込めた想い、展示での気づきをThe 21st century da Vinciの滝本が振り返ります。

1. 展示の様子─異様さとわかりやすさ

a. 展示空間、発明に向き合う

「発明ってなんだとおもいますか?」

そんな問いかけから始まったのが本展示、発明如来蔵。発明って改めて考えるととても不思議なことがわかる。

例えば、数学は発見なのか発明なのか。数字のゼロはどうだろうか。ないものを生み出すことを発明と呼ぶのであれば、どのようにして無から有が生み出されるのだろうか。

問いかければ問いかけるほど、発明は不思議であることがわかる。

右には発明の観念についての歴史を記したポスターが展示されている。西洋では古代ギリシャ(あるいは古代エジプト)から、東洋では古代中国から「発明」にあたる言葉が存在した。つまり発明は文明と共にあり、意識的に扱われてきたのである。

啓蒙や産業革命を経て、より科学的に。近現代を経てイノベーションと共に使われる。現在では特許権での枠組みにおいて発明の存在を確認することができる。

歴史を通して見えてくるのは発明が有形無形を問わなかったということだ。現在の発明観は強く科学技術の創生のイメージが結びついている。しかし果たして発明されるのは技術だけなのだろうか。例えば新しい社会制度や考え方(思想)も含まれるはずだ。そもそも果たして発明されているのは「モノ」なのか。それは「コト」なのかもしれないし、価値体験が実は重要なのかもしれない。そんな色々な思索の余地が発明には残されているのである。

左のポスターには鑑賞者の考える発明観についてコメントを頂いた。後になってこうすれば良かったなと感じたのは、鑑賞前後を比較できるようにすれば良かったと思った点だ。頂いたコメントをみるとわかるが実に示唆深い意見を数多く見つけることができる。本展示で発明観の転換を行えたのであれば嬉しい限りである。

下には偉人たちの発明への見解が列挙されている。発明という言葉がどのように使われてきたのか、また発明とは何かという言葉を並べた。鑑賞者は普通考えられている発明との違いに気づくのではないだろうか。

真ん中に配置されたのが本展示のタイトルである発明如来蔵である。その仕組みの詳細は後述するが、発明というのが一体どのようにして成立するかを三次元的に配置したものである。中央から覗き込み、奥から手前へと発明の種子が流れ込む。やがてそれは実体化し、スケールの大きな構造物へと変わるという一連の「流れ」を表したモノだ。

鑑賞者は発明如来蔵を坐禅しながら観想する。これは道元の発明観である「坐禅をすると忽然と大事を発明する」という考えに由来したモノである。「坐禅すれば発明できる?そんなばかな…」という疑問に対し、体感的に向き合う展示空間だ。鑑賞者は坐禅を行うコトで、主客未分の状態(世界と溶け合う状態)へと精神統一を行う。道元の意図はその点にあり、世界が溶け合い、ひとつの「あるがまま」の状態へと移行するコトで、世界の真の姿が明らかになるというものである。スティーブ・ジョブズのコネクティング・ドッツ(点と点をつなげる)という考えの原型たる世界規模版と考えてよいと思う。ここで智慧を得ることを「直覚」という。

この展示空間のスタイルは阿字観と呼ばれる瞑想法を応用したものである。阿字観は仏様の表す阿の字と向き合い観想することで仏(何か神的なものではなく、宇宙のことを仏教はそう呼んでいるのである)と一体化するというものだ。そしてこの仏というは何か遠くに求めるものではないのだ。己自身が仏なのである。それに気がつくことを「自覚」という。つまり発明如来蔵に向き合って坐禅をするということは、己に発明の源泉が秘められているということを自覚することに他ならない。宇宙のはじまりとともに発明していくこの世界そのものが私なのである。

上に展示されている7つの仮面はイギリスで活動するアーティストのKame(https://instagram.com/3_kame_?igshid=MzRlODBiNWFlZA==)の作品である。彼が日本にいた時に共同制作した作品をキュレーションし、本展示空間にて展示した。私の発明品のテーマに「マスク(https://100banch.com/projects/the-21st-century-da-vinci)」というものがあるが、これは大変興味深いものである。詳細は省くが、仮面が象徴するものはその土地に根ざした霊性(あるいは生命的躍動)に他ならない。アメリカにおいて、それはトーテム(ヒトとイキモノを結びつける宇宙的な流れ、もしくはキズナ)という形で展開する(日本にも同様の事象は確認されており、南方熊楠の研究が有名である)。

シンガポール・アジア文明博物館 私が一番好きな仮面、バリ島・聖獣バロン

仮面が象徴する風土の霊性・生命的躍動というのはアニミズムに他ならない。モノやコトに何かそれ自体が生きているような感覚を感じる、それは単なる幻想ではない。そもそも隣にいる人が本当に私と同じ意識を持っているのかどうかなどわからないのだ(これはクオリアの問題として現代でもなお研究が続いている)。そうなると生命性というものが何を根拠に成立しているのか明らかにならないのだ(この探求の営みが生物学である)。だから発想を変えてみよう。全てのものに生命的躍動(霊性)は潜在する。そして我々はその生命的躍動が顕現する形でのみ(つまり五感で知覚できる形でのみ)、それを生命体として認識しているのである。だから普通、不可知の領域に生命体を認めない。しかし、その認めないという姿勢は決して絶対的でも未開社会的でもないと考える。ただ近代科学の実証的性格というものが、ある部分的事象について最低限の仮説を立てて研究を進めるという方針ゆえである(オッカムの剃刀という)。

今回オマージュした作品、岡本太郎「心の森(地底の太陽)」

引用:https://taiyounotou-expo70.jp/about/

しかし木を見て森を見ず、と言われるように全体像なくして部分の意義は見えることはない(もちろん全体だけでは不十分である)。この全体性の核心に「流れ」というものがある。我々の身体が常に細胞を変え、空気や水が循環し、地球のエネルギーが絶えず変換し、エントロピーが増大するようにこの世界には「流れ」がある。この流れの正体を哲学者のアンリ・ベルクソンは時間であると言ったり、博物学者の南方熊楠は「宇宙の力」と呼んでいた。大友克洋の漫画『AKIRA』においては「大いなる流れ」と呼ばれ、人類学者の中沢新一は「大いなる創造力の流れ」と呼び、哲学者の井筒俊彦は宇宙的コトバと呼ぶ。それが何か宇宙的であるのは間違いないのだが(つまりビッグバン以前の宇宙創生からはじまった一連の流れ)、その実態は未だに掴めない。しかしながらこの宇宙的流れというのが生命的躍動そのものであり、それらが私たちに生命の実態を時折見せる。しかし生命の躍動そのものを実体化した営みがそもそもあって、それが仮面の表現する原始的な霊性に他ならないのだ。近現代のモダニズムが有用性を基準として排除してきた一連の表現あるいは装飾(建築家ミース・ファン・デル・ローエの”Less is more”、建築家ルイス・サリヴァンの”Form ever follows function”など)は未だ劇的な復活を見ない(建築家ロバート・ヴェンチューリの”Less is bore”、柳宗悦の民藝における用に即した美とは生命的躍動の延長である、フランスのアール・ヌーヴォーやウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動など)。

引用:角川文庫『猫楠』水木しげる

引用:講談社『AKIRA』大友克洋

仮面が問いかけるのはそう言った見失われた生命的躍動とアニミズムである。そしてこの生命的躍動こと「宇宙的な流れ」の源泉に発明は息づくのだ。発明如来蔵における如来蔵とは森羅万象に仏(自由な存在)になる力があることを指すが、これはどこかアミニズム的な思想基盤と類似性が見られる。世界を「あるがまま」に映す究極の存在である発明如来蔵とそれらの生命的躍動として顕現する最も原始的な形態である仮面。この両者が示すのは「一即多(多即一)」という普遍性である(その有名な研究者に人類学者の岩田慶治がいる)。すべてのものが溶け合った宇宙そのもの、その中での生成消滅と流動性が発明の元型をなし、その発展と展開が多様な種類の発明を生み出すのである。

仮面の下敷きには私(滝本力斗)の20歳の時のライフマスクが使われている。7つの仮面が同一の根源をなしながら、多様な色彩を示す様子は仮面それ自体がすでに「一即多」たりえているように思うのだ。

 

b. 来訪者、やっほー

嬉しいことに初日に私のメンターである西村さんが訪ねてくださった。「てっきり制作で行き詰まっていると思っていたけど、良い感じにぶっとんでるね!」「そのまま突き進んで!」とエールをいただいた。100BANCHの原理である「たった一人でも応援したら」という言葉が最近、心に沁みる。自分はこう見えても常識というものは知っているつもりなので、自分のやっていることがいかにぶっ飛んでいるか(つまり普通、現社会的にそれは逸脱したものであり非常識的で有用性にかけるモノであるということ)は自覚しているつもりである。もし誰も応援してくれていなかったら、その歩みは今より遅く、山にこもるか、一般的な発明の系譜に乗っかっていたことだろうと思う(今でもそういうジレンマは時折くるが)。

15日には乙武さんが来訪していたのだが、その際に私のブースにも立ち寄ってくれた。私はてっきり覚えていないかなと思い、発明の無限の可能性について説明していたのだが、途中で「会ったことあるよね?」「実験報告会か!」「雰囲気とかめっちゃ変わってるじゃん!」と気づいてくださった。覚えてくれてたんだ!と嬉しく思いながら、ここまでの経緯を述べると、乙武さんがメッセージをくれた。「あのね、これからもさ、色んな人に意味がわからない、やる価値がないとか言われると思うんだけど、どうかこのまま突っ込んで欲しい。僕はいつでも応援しています」。!!感動。とても沁みます。

発明如来蔵のその異様な雰囲気とわかりにくさというのはあまり人を惹きつける形態をとっていない。本来はもっと科学コミュニケーションの部類に属するようなわかりやすく伝えることを意識したいのだが(そのために科学館・博物館のフィールドワークを行ったのだが)、そもそも発明という観念自体が一体どのようなものか自分でもわかっていないのだから、わかりやすく伝えるというのはむしろ発明の深淵さを削いでいるように感じた。だから表現したいことをなるべくそのまま出力できるような形で試行錯誤し、鑑賞者と共に考える形態を採用した。後述するが理想の形態には自分が創造者としてはあまりに未熟であったため届かなかったが、その異様なコンセプトはできる限り表せたと感じる。

異様であるがゆえに、鑑賞者自身も鑑賞を選ぶ。その何を意味するのか検討もつかないタイトルと展示物は、深淵を覗き込むものも選ぶ。だからこそだろうか。子供の鑑賞者が多かったのは。好奇心を頼りに引き寄せるその魔性は科学や学問の本質を表しているように感じる。世界の事物に好奇心を示した時、世界はその姿を明らかにする。発明如来蔵の本質はそこにあると気づいた瞬間でもあった。

子供がくれば家族もくる。だから家族で発明如来蔵の前に座る人も多くいた。これが非常に興味深い。傍目から見てもこれは面白い。家族という構成単位が発明空間に坐しているのだ。これはすでに発明の領域を展開していると言える。非常に神秘的である。この展示の前に、去年の展示物である「発明如来蔵」を芸術祭で展示したのだがその時も家族で坐る方が多くいたのだ。「なぜ坐ったのですか?」と聞いてみると、「わからない、そこに坐る場所があったから?笑」みたいに返答を頂いた。うむ、やはり好奇心である。ここに坐るか坐らないか、それを決める要因は好奇心にあるようだ。AIDMAの法則というマーケティングの基本的な考えがあるが、このAttentionとInterestの間に無意識の導線が入り込むのだとわかる(それを研究するのがデザインだ)。それが今回の場合、坐る場所だったわけだ。今後は好奇心を持たないものを惹きつける装置と好奇心のある人をさらに没入させる仕組みを取り入れたいと感じる。

もう一つ、気づいたことがある。それは興味を持つ人と持たない人の傾向である。持つ人には大きく純粋な科学者と熱烈な神秘家が存在した。純粋な科学者は化学や生物学などを専門にしている大学生・大学院生、研究員などである。彼らが興味を持ってくれることは興味深い。やはり生命というのはその創発的特性と複雑な現象が相まって、このような発明(無の有への転換)にどうやらはまるようである。私は生物・化学に弱いところがあるのでとても勉強になる。もう一つの神秘家とはヨーガだったり坐禅を経験しており、生命的躍動への目覚めが強い人たちである。身体性や自然性を体感的に理解している彼らに興味を持って頂いたことは光栄である。これらは普通、極に属する。それは科学と宗教という対立軸で語られ、ベトナム反戦運動の時代においてはチベット仏教や禅、ヒンドゥー教などの東洋宗教が西洋に流れ込むことでヒッピー文化として実体化した。代表的なエコロジカル思想の誕生もこの時で、発明家バックミンスター・フラーは代表格であり、彼の思想とヒッピー文化が調和して誕生したのが科学雑誌のWired(例えばケヴィン・ケリー)やスティーブ・ジョブズなどのコンピュータサイエンティストだったりする。

この時期の潮流を一般的にニューエイジという。同時期、そのような霊性と科学の対立軸を融和しようという試みがあり、それをニューサイエンスという。代表的な人物にはフリッチョフ・カプラという物理学者がおり、彼は”The Tao of Physics”の中で東洋思想と現代物理学の類似性を指摘した。一連の東洋思想と物理学の語りはこれに発すると考えて良いだろう。この試みは一大ムーブメントを引き起こした。その同時期、システム論や複雑系科学などの発達も相まって、よりメタ科学と科学の融和が広がって行った。哲学者アーサー・ケストラーや物理学者デヴィッド・ボームなどがそれに当たると考える。複雑系研究でも成果が生まれ、化学者イリヤ・プリゴジンなどが代表者であろう。また哲学者アルネ・ネスのディープエコロジーも現れる。

2022年にフィールドワークをしたスイスのエラノス会議

もともと禅やチベット密教、ヒンドゥー教などは熱心な宗教者の努力もあって西洋に強く根付きつつある時代だった(それ以前に大陸ではヒンドゥー教的世界観へ近づく傾向がショーペンハウアーなどから確認できる、またウェーバーも宗教社会学という研究を切り開いている)。それが鈴木大拙などであり、ジョン・ケージなどの現代音楽もこれに強く影響する。同時期、深層心理学の創設者カール・グスタフ・ユングと精神分析の創設者ジークムント・フロイトが開いた深層心理学が成熟し、宗教学や神話学などの原始的形態とその根拠を深層心理に求める研究が盛んになった。鈴木大拙や井筒俊彦はユングの系譜に連なる世界会議のエラノス会議に参加することになる。そんな背景もあって、物理学者のオッペンハイマーやアインシュタイン、ハイゼンベルグなども時折、東洋思想や東洋宗教の言葉を引用していた。それを実感的に理解していたのが日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者の湯川秀樹であり、中国学の学者家系に当たることから荘子などからインスピレーションを得ていた。

現在は、その潮流も終わったように思える。20世紀末になって神秘主義への傾向が強くなり、実証的性格を失ったのではというのが私の雑感だ。現代の代表的論者にティール組織の原型となったケン・ウィルバーなどがいるが、スピリチュアリティが強く科学の性格からはかけ離れているように私は感じる。ニューサイエンスの試みは行き詰まりを見た科学の革新的試みではあったが、成功したかどうかは怪しい。それはニューサイエンスなしでも理論研究も実験研究も十分に果たせているからだと思う。しかしながら科学の危機に未だ変わりなく、心の科学との接点は見失われている。そもそも数理的に還元することが正しいのかという科学哲学の潮流や全てを科学に還元する還元主義と人間の自由の戦いでもあるように思う。そういった混沌の時代に新しい枠組みを作りたい、それが私が発明論の研究にささげている思いである。だからこそ科学者と神秘家が一同に介すことになったのはとても重要なことなのだ。あとは両者の媒介になりうるコトバ(概念装置)を発明することである。

宇宙的発明の源泉ー無と本質の二重の見

一方でいまだに展示に来ないのがエンジニアである。面白いことにほとんど来ないのである。エンジニアがそもそも来ていないのか、はたまたエンジニアが避けているのかどうかはわからない。アーティストやクリエイター、職人はくるのだがエンジニアは来ないのだ。ひとつ考えられるのはエンジニアには思想や前提があまり必要ではないということだろうか。要件に基づいて実装すること、そこでの工夫が腕の見せ所であって前提はプロダクトマネージャーの仕事だからである。現代の発明に関わる多くはエンジニアのはずである。彼らを今後、この一連のムーブメントにどのようにして巻き込んでいくかが私の関心でもある。

他にも大学の後輩や同級生、外部団体のゼミ仲間などが来て、アドバイスや感想をいただいた。大変嬉しく思う。この輪を大きく広げ、新しい発明のムーブメントを起こしたい。

 

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