• イベントレポート

科学と社会が出会うとき「第2章[科学×創造] 科学と陰謀論は、となりあわせ」──ナナナナ祭2025アーカイブ

AI、ワクチン、宇宙、量子力学。科学や技術の最先端は、時に“それっぽい物語”や陰謀論ととなりあわせに語られます。けれどそれは、単なる誤解ではなく、人々が「意味」や「納得感」を求める自然な構造でもあります。

ナナナナ祭2025初日のカンファレンスデー第2章では、トークセッション「[科学×創造] 科学と陰謀論は、となりあわせ」を開催。人々にとって科学とは何か、そして、それはどうすれば感じられるものとして届くのか。研究・技術・創造の現場に立つ登壇者たちとともに問い直しました。

登壇者

田所直樹|A cultured energy drink リーダー/細胞研究・食品開発担当
再生医療と培養肉技術の人類へ不老不死をもたらす可能性に興味を抱き、培養肉の一般普及を目指す市民研究団体であるShojinmeat Projectに所属し、趣味で細胞を培養して培養肉の研究を行いつつ、バイオ研究の敷居を下げるために学会発表や学校での研究ワークショップを行い、誰もが趣味で研究できる世界を目指している。

浅井順也|Academimicリーダー/Academimic合同会社代表、ディレクター
科学とポップカルチャーの融合を掲げるクリエイティブレーベルAcademimic主宰。論⽂でも学会でもない新たなアウトプットを⽬指し、研究に触れてうまれた想像を小説、映像、音楽、イベントやプロダクトなどあらゆるメディアで発信中。WIRED Creative Hack Award等受賞。DIG SHIBUYA 2024連携プロジェクト選出。

前山和喜|研究者
計算と社会の関わりの歴史について研究しています。コンピュータが利用されることによって、科学研究の方法や人々のコミュニケーションのありようが変容していく過程について興味を持っています。情報学に関する学際的な研究活動や、コンピュータに関する資料の保存や博物館でのコミュニケーションなどについても取り組んでいます。

モデレーター
宮田龍|科学コミュニケーター

「閉塞感のない社会」の実現を目指し、科学やテクノロジーと社会との対話からともに未来をつくることを目指す、科学コミュニケーション活動を行っている。イベント・ワークショップ・執筆・展示制作など活動の実践しながら、SFプロトタイピングを用いたコミュニケーション手法の開発などにも従事。日本SF作家クラブ会員。

陰謀論と科学は何が違う?

──最初のテーマは、陰謀論と科学はどう違うのかという問い。仮説、検証、再現性……科学の構造を手がかりに、「それっぽさ」が生まれる背景や人が納得感を求める理由を紐解いていきます。

浅井:陰謀論と科学の違い……。難しいのですが荒っぽく言ってしまえば、結論ありきで語られるか、エビデンスベースで組み立てられているか、という違いかもしれません。

宮田:なるほど。例えば、田所さんは研究や開発をしていますが、科学の特徴って何だと思いますか?

田所:多分、科学にも陰謀論にも「仮説」はあると思うんです。「これを飲んだら病気になるかも」「頭にアルミホイルを巻いたら電波を防げるかも」といったものも仮説からはじまるんです。科学はその仮説を検証することができる。一方で陰謀論は検証性や再現性があんまりないのかな、と思っています。

宮田:科学は追求したいテーマに対して仮説を立て、実際に検証していった結果の積み重ねであって、誰がやっても論文通りにやれば、同じ結果が得られるみたいな再現可能性を担保しながらやっていくカルチャーがありますよね。ビジネスの現場でも「エビデンス」や「再現性」といった言葉を耳にするので、科学以外の場でも浸透していると思います。にもかかわらず、陰謀論やエセ科学が話題になり続けているのは、どうしてなんでしょう。

前山:僕は科学とエセ科学、陰謀論の違いは、「反証可能性があるかどうか」だと思います。科学は「それが間違っている可能性」を問うことができます。一方で陰謀論の場合、間違っていることすら問えない、もしくは討論を拒否するみたいなスタンスのものだと思います。

宮田:間違っているものを問えないって、どういうことですか?

前山:例えば「UFOを見た」というのを科学的に議論するのは難しいですよね。科学は数量的だったり、再現可能性を高める記述が必要ですが、UFOに関してはそれで議論するのは難しいと思うんです。「僕見たんだもん」だけでは科学的な対話になりませんよね。

宮田:ちょっと意地悪な聞き方かもしれませんが、エセ科学にも学会があったりするじゃないですか。その人たちに、「それは違うよね」と言ったとき、科学と同様に議論ができる感じなんでしょうか。

前山:議論の言語やフォーマットに科学的なものを使っているだけで、対象自体が科学のフィールドに落ちてきていません。それで、問うことができない、反証できないということで切り分けられるんじゃないかと思います。

田所:UFOを幽霊に例えると分かりやすいかもしれません。幽霊を見たっていうのも数値化できないじゃないですか。脳科学が発展して「幽霊を見たときの脳の状態」を分析できるようになれば科学になるかもしれませんが、今はその議論ができないので、スピリチュアルな話に分類されてしまうのかな、という感覚です。

浅井:エセ科学の中にも本当の科学が潜んでるかもしれない、みたいな話もありますよね。経験則として存在していても体系化されていないため、それが科学的に検証されたものなのかをきちんと線引きしないと、ぐちゃぐちゃな議論になって全然発展しないと思います。

宮田:確かに。今はまだ科学の営みの外にあることも、見方や計測方法が増えていけば、やがて科学のフィールドに入ってくる可能性はありますよね。

田所:天動説と地動説の関係も、そうかもしれません。当時はどちらが正しいか議論できなかったけれど、望遠鏡が発明されたことで判断が可能になった。技術が進んだことで、科学として扱えるようになった事例です。

 

科学は社会にどう伝わっている?

──続くテーマは「科学が社会にどう伝わっているのか」。田所さんの、培養肉や昆虫食といったフードテックの事例をもとに、科学が社会と出会うときに起きる誤解や摩擦、そして“炎上”が生まれる構造について掘り下げていきました。

田所:私は培養肉を黎明期から研究しています。大豆ミートなどの代用肉は、大豆のタンパク質を使って肉っぽいものをつくるのですが、培養肉というのは、牛の肉などから採取した細胞を培養して肉をつくるものです。実は『ドラえもん』に培養肉が登場したことがあったり、昔から妄想されてきたものが今まさに実現している、という感じです。例えば、採取した細胞からフォアグラをつくったり、組み合わせた培養肉で指型ロボットをつくったり、「寿司シンギュラリティ」として、より弾力のあるタコの寿司のようなものを実現したりしています。こうした事例に対して「怪しいフードだね」と陰謀論につながっていくこともあり、実際によく叩かれています。

なぜ培養肉に取り組んでいるのかというと、例えば人類が宇宙に行くとき、ロケットの中で牛を飼育するのはナンセンスですよね。だったら細胞をカプセルの中に入れて増やし、肉をつくろう、という発想です。将来的には火星や月に培養肉工場をつくって、人類がより宇宙に行きやすくなる構想も描いています。

2014年に培養肉の技術が登場し、徐々に生産コストも下がってきました。ところが2018年頃、アメリカのベンチャー企業が培養肉で既存の肉と勝負していく際に、無菌室で育てた培養肉を「クリーンミート」と呼んでしまったんです。これによって「培養肉ベンチャーVS一次産業」という対立構造ができてしまいました。また、投資家たちも食糧問題の解決策や宇宙の可能性から投資をはじめたというのもあります。それについて、「人口を減らそうとしたんじゃないかと」いう話になったり、一次産業からの反発があったりで、アメリカでは混乱した状況になっています。これが、培養肉研究者から見た陰謀論発生の経緯です。

田所:私は培養肉以外にもフードテックに関わっていて、国が推進するものには培養肉以外に昆虫食やヘルシーフードがありました。その中で、コオロギは培養肉に似た構造の炎上もあったので結構分析しました。科学的な反復可能性でみるとコオロギは悪くないんです。世界中で食べられていますし、たんぱく質量も鶏・豚・牛よりも多いです。ではなぜ炎上したかというと、いろんな理由がありました。昆虫食を研究していた徳島大学のベンチャーが、高校の給食にコオロギを出したんです。これは食育の一環で、希望者にのみ提供していたのですが、ニュースでは全員にコオロギを振る舞ったように報じられてしまいました。また、河野太郎さんが昆虫食を推進していたんですが同時にコロナワクチンも推進していたんですね。コロナワクチンに対してのアンチも多い中、昆虫食を推したことで、より注目を集めて炎上したのです。

宮田:ことの発端は希望者のみに提供する食育だったのに、メディアの取り上げ方が原因で誤解が広がったんですね。

田所:そうですね。正しく伝えることの重要性を痛感しました。

 

科学とはそもそも、どんな営みなのか

──前山さんは、日本計算史の視点から、科学の発展と社会との関係を振り返りながら「誰が語るか」「どう語られるか」という知の構造を問い直します。科学の歴史が積み重ねてきたレトリックが、今、どのように“それっぽさ”に転用されているのかも見えてきました。

前山:自分が取り組んでいるのは、日本計算史と呼ばれる分野です。あくまで計算の実践の歴史で、コンピューターそのものの歴史ではありません。なぜこれをやっているのかというと、「計算」という日本語が多義的だからです。欧米圏の「計算」は、カルキュレーション的な計算もあれば、コンピュテーション的な計算もあるのに、日本語ではどちらも「計算」としてしまい、記述が難しいです。また、後進国、敗戦国であるところや、漢字文化圏で文字数が多くて扱いにくいこと、歴史研究によって価値付けられた博物館がないことなどもあり、歴史的な裏付けをしようとしています。

議論を整理するために、科学の「3つの波」を紹介します。最初の波は、科学の礼賛の時代です。専門知の絶対性、つまり科学という知識体系によって真理を明らかにし、技術や工学に応用していこう、という時代です。第二の波は、科学が相対化し、市民も科学に関与しようという動きが広がります。公害問題など、科学の専門知だけでは解決できない事例が出てきた背景もあります。そして現在、誰もが専門家になれる時代に入りました。ChatGPTで調べたことをネットに書き込めるように、専門知とは何かを問い直す必要がある時代になってきています。誰でも語れる時代だからこそ、「誰の語りをどのような手続きで信頼するのか」が問われるようになってきているのが第三の波です。

宮田:第三の波が来ている中でも、第一、第二の波がなくなったわけではないですよね。体系的な知識の追求は今も続いていますし、どんどん深掘りされていっています。専門と非専門の垣根が同時になくなってきていますよね。

前山:「共創が大事だ」「対話が大事だ」とよく言われますが、これはアリバイ的なものだと思っています。「双方向コミュニケーションをしているんだから、ちゃんと市民の声を取り入れていますよ」といった具合に。もっと言えば、市民を科学技術振興のために動員しているだけじゃないか、と感じることもあります。一緒に取り組もうという共同ではなく、「市民を科学技術の発展に貢献させよう」という発想にも見られるんじゃないかと思います。

そもそも共創に参加する人々も特定の層に限られています。今日のように平日昼間に科学のイベントに参加できるのは、ある種の条件を満たす人たちです。「人々と共創する」という言葉をつかうなら、その前提を深く自認する必要があると思います。そして、間違ったことを言っている人々をどう巻き込んでいくか、難しいですよね。陰謀論者は、議論・討論を拒否するスタンスで議論をしてきません。共創の内側には入ってこないのです。

宮田:そうですね、我々、今回のイベントをやるからといって、陰謀論側のコミュニティに何か呼びかけたわけではありませんからね。

前山:やはり、正しい知識と誤った知識の対立、としてだけ見るのではなくそれらが’実際にどのように認知され、どのような制度のもとそれが生まれているのか、どのようなメディア環境があるのか、知の流通構造を見ることこそ一番議論するべきではないかと思います。

宮田:社会の構造として、そういう情報、知識体系がどういう流れで生まれていて、人々がどのように摂取して、摂取した人たちがどんな風に、どういう発言をしていくのか、そこら辺が分かっていないと結局話の構造は見えないし、なくならない、ってことですかね。

前山:そうです。例えば、知の創造、知恵を生み出していく活動って、これからは「コンピューターに読んでもらうために書く」感じになるかもしれません。

宮田:最近、非エンジニアでも「AIが読みやすいから」とマークダウン記法で文章を書く人が増えていますよね。

前山:そうやって構造自体が変わろうとしているタイミングだ、ということを議論すべきですよね。僕は「御神託コンピューティング」と呼んでるんですが、コンピューターに「お願いします!」と任せて、出た結果でなんとかする、みたいな。日本で最初の超高層ビルが建ったのは、コンピューターで耐震計算ができるようになったからですが、その耐震計算が完全に証明できたわけではありませんでした。あらゆる可能性を考慮したシミュレーションなど元々無理なわけです、なのである種、御神託みたいなことをやっているわけです。

宮田:中身の正誤は関係なく、まるっと御神託、コンピューターに任せて出てきたものに従うと。

前山:そうです。科学的だと思っていた実践も、実は科学の実践ではなく日々の日常の実践の中に入ってくるんじゃないかと思います。いずれにせよ、そういうレトリックは陰謀論にうまく使われているなと思います。

宮田:「うまく使われている」というのは?

前山:自分たちが科学的だと思ってつくりあげてきた話し方、説得、証明の方法、ロジカルな思考法やレトリックを陰謀論界隈の人たちはうまく使うことによって「それっぽく」しているんです。しかも陰謀論の方が制約がなく強い言葉で言えるんですよね。

田所:研究者は断定しちゃいけないと教わりませんでした?「何を示唆する」という言い回しを使う。

宮田:テレビ番組でも「断定は避けたい」と交渉することがあります。科学は「今は確からしい」とされることが、明日には変わる可能性を前提にしています。その認識の差が、科学の内側と外側で大きいのかもしれません。

浅井:科学を履修した人としてこなかった人の差はそこに現れると思います。「断定したい人」か「複数の可能性を提示する人」か。その視点がなければ、科学を扱うのは危険です。

宮田:そうですね。そこの教育をうまく変えれば、もっと早い段階でそういう話もできるのかなと思いつつ、じゃあそれを履修していない人が生きづらくなったりとか情報に踊らされやすくなる、みたいなのもまた違うというか、解決しないといけない問題が別にあるような気もします。

浅井:そうですね。科学を進めるのと科学を享受する側、両方の教育が必要だと思います。

田所:難しいのはそこです。1億総クリエイティブ社会と言われるように、誰もがAIで画像を生成したり動画を発信できる時代になりました。科学でも一般のリテラシーが上がればプロとアマの境目はなくなりますが、そのとき専門家とそうでない人、正しい知識と誤った知識の区別はどうするのか。前山さんの指摘どおり、そこは相反する難しい問題だと思います。

 

クリエイティブと科学の関係

──科学の見方を社会に届けるとき、私たちはどんな物語を紡ぐのか。科学と創造が交差する地点から、クリエイティブの可能性と限界を探っていきます。

宮田:「1億総クリエイティブ」の中、浅井さんは科学にクリエイティブをかけあわせて社会に新しい接点をつくっていってるわけですよね。

浅井:クリエイティブと科学の関係ですが、科学をどの視点で見るか、どこから見るかで、話が色々あると思います。「Google Scholar」という論文検索サービスには「巨人の肩の上に立つ」という言葉が書かれています。ニュートンの有名な言葉で、先人の知識の蓄積の上に立って世界を観察する、という意味です。ただ、今は巨人があまりにも巨大になりすぎていることが問題なのかなと感じています。

私は、メディアアーティストが巨人で遊びすぎているように思うことがあります。巨人には善悪はなく、一般の人からすれば巨人のおかげで土地が耕され、生きやすくなっている。一方で、よく分からない巨人に襲われるかもしれないという不安もある。メディアアーティストは最新技術を使って、巨人の頭に電極を差し込み「こんな動きもできるよ」と踊らせているように見えることがあり、それは本質的ではなく、知の冒涜に近いと感じることもあります。研究者とかは、巨人を大きくする方向に行ってもいいと思うし、サイエンスコミュニケーターが巨人の肩の上でどういう景色が見えるのか、一般の人に届けるのもすごく大事だと思います。ですが、巨人が大きくなりすぎて声が下まで届かなかったり、そこを降りたり上がったりするのを何とかする必要があるのかな、とも感じています。

クリエイティブの役割は、巨人の肩から見える世界を創造力をもって表現することです。ただ、世の中にはディストピア的な物語が増えすぎている印象があります。自分ごと化しやすくウケやすい一方、それを本当の世界と捉えてしまう人もいる。描いた世界が現実の人に負の影響を与えたとき、その責任を取れるのか、いろんな人に聞いてみたいですね。それでもディストピア、めっちゃ楽しいんですよ。社会実験、思考実験みたいな。現実を良くする方向に描くのか、それともディストピアで最後の1人になったと描くのか、サイエンス×クリエイティブに携わるものとしていろんなクリエーターの方に聞いてみたいです。

宮田:これまで関わった作品で、ディストピアを扱ったことはありますか?

浅井:初期は「こうなったら面白いかも」という一発芸的なネタで考えることもありましたが、不安を煽るだけで何を伝えたいのか分からなくなりがちでした。それ以降は、ディストピアを描いても明るい終わり方にするなど、スタイルを変えています。

また、「正しく怖がろう」という言葉がありますよね。原典は物理学者の寺田寅彦ですが、科学の権威を前提にし過ぎる言い回しにも感じます。さもサイエンスが正しい、という前提で言ってしまいがちなんじゃないかと。生活の中での「怖さ」の理由は人それぞれで、1つの正しさを押しつけるのは難しい。から、個人個人の正しさを当てはめるにはあまりにも大きすぎるな、と思います。スタンスとしてはいいと思うんですが、もう少し噛み砕いてもいいんじゃないでしょうか。

だからこそ「正しく怖がろう」という言葉は、科学を正しく伝える人にも、科学を題材に作品をつくる人にも向けたい。エンタメ化することで人の心を強く揺さぶるなら、負に落とすのか、正に落とすのかでサイエンスとの向き合い方も、クリエイティブの方法も変わってくると思います。

宮田:確かに「正しく恐れる」って言いがちなワードではありますが、「正しい」という言葉自体が難しいですよね。色々なカテゴリーの中での正しさがある中、僕は最近、正しいというワードはあまり公で声に出せなくなってきていると思いました。

僕も科学コミュニケーションをする中でクリエイティブ寄りの手法を使いがちなんですが、科学コミュニケーションの一環としてクリエイティブな手法を用いる場合、クリエイティブだけが最終的な目的ではないですよね。一方で、クリエイターの皆さんが自由に創造することを制限はできる限りしたくない、みたいなクリエイターのみで制作されるものとは違うジレンマが生じることもあると思います。浅井さんはその辺をどういう線引きで考えていますか?

浅井:クリエイターの幅を狭めるつもりは全くありません。ただ、リアルな科学をもとにした作品が、受け手に陰謀論的な受け取られ方をして「そんな研究をやめろ」といった二次・三次的なアクションにつながる場合、その影響を想像できるかどうかは重要だと思います。

宮田:確かにそうですね。我々は、そこが起こる前提で予めリスクをクリエイターと話し合い、一緒に考え、対処の流れまで決めます。実は研究者が論文を書くときも同じで、世の中に出す以上は避けて通れません。陰謀論だけでなく、社会の構造や情報の流れにもっと目を向ける必要があると思います。

 

科学と陰謀論をめぐる問いを経て

──最後は、登壇者がそれぞれの視点から考えを共有し、セッションを締めくくりました。

前山:僕はアマゾンでおみくじを年1回注文しているんですが、必ず大吉が入っているんです。なので、科学的には僕は毎年大吉の人生なんです。おみくじが陰謀論というわけではないですが、そういう何か生きやすくなるように自分がどういう構造で理解するか、科学という認識の枠組みをどう使っていくかということだと思います。

田所:多分、科学、エセ科学、陰謀論は、それが正しい、正しくないという時代の主観もあったりするので、線引きが難しいのだと思います。陰謀論を本気で信じている人は、まあいいと思うんです。ただ、悪意を持ってお金を儲けようと利用する方がいたりもするので、そういったところは避けるべきだと思います。

浅井:今、SNSなどでドキュメンタリー作品に見せかけた創作も流行っていて、物語と現実が極めて近くなってきています。そういう部分も改めて考えてみてもいいのかなと思います。今後も物語をたくさんつくっていきますが、少し影みたいなところも含めてまた色々お話しする機会があればいいなと思います。

宮田:今日お話ししたことは、実は科学的な目線やエセ科学という話ではなくて、人と人とがどう関わっていくのかを改めてみなさんと一緒に考える必要があるんじゃないかというところに僕の中では落ち着きそうです。メディアやコミュニケーションツールもそうだし、僕たち1人1人が人と違う価値観の中で、うまく距離感をつくっていくきっかけが必要なんじゃないかと思います。

 

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