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「明日の神話」が生まれる街 〜渋谷・100年ランドマーク物語 〜 第2回名曲喫茶ライオン

渋谷を彩ってきた「明日の神話」の数々を、それぞれの時代を象徴するランドマークとともに巡りながら、「次の100年」へのヒントを探すシリーズ。

第2回は、「良質な音楽を聴かせる」という本懐だけを掲げて生き抜く、孤高のライオン。

名曲喫茶ライオン

昼夜問わずラブホテルやピンクな雰囲気の看板が猥雑に密集し、足を踏み入れるのに躊躇する人も多いであろう道玄坂・円山町エリア。この一角に、大正〜昭和初期モダンの香りを色濃く残す空間でクラシック音楽が聴ける店があると言っても、にわかには信じられないかもしれない。

それが昭和元年=1926年創業の「名曲喫茶ライオン」。名曲喫茶とは店内に音響設備を備えてクラシック音楽を楽しめる場所のことだが、ステレオやレコードがまだまだ高価だった1960年代くらいまでにかけては、こうした業態の店が全国に数多くあった。クラシックだけでなく、1930年(昭和4)に本郷にオープンした「ブラックバード」が現在のスタイルの元祖と言われるジャズ喫茶、さらに時代が進んで70年代になるとロック喫茶など、理想的な音響と豊富なラインナップで音楽を聴かせる喫茶店は、まだ貧しく、また文化に飢えていた当時の若者たちの溜まり場となるのが常となった。

クラシカルな雰囲気は創業当時のまま(編集部)

「ライオン」のある一角は現在でも「百軒店(ひゃっけんだな)」と呼ばれる、もともとは1923年に起きた関東大震災の復興計画の一環として作られた歓楽街。のちに渋谷パルコや西武百貨店をつくることになる西武鉄道の前身・箱根土地株式会社の総帥・堤康次郎が、震災で甚大な被害を被った上野・浅草や下町エリアの名店を多数、遊郭街であった円山町に隣接するこの地に誘致したのが始まりだ。この頃の渋谷は駅周辺を除けばまだまだ郊外の田舎町にすぎなかったがゆえに、震災の被害もほとんどなかった。

現在も上野に残る精養軒、銀座の山野楽器や資生堂、さらに劇場などもこの百軒店に「疎開」。やがて渋谷駅の項で述べたように東横線、帝都高速鉄道、そして京王井の頭線などが次々に乗り入れるようになると、百軒店は浅草の仲見世以上とも言われた賑わいを見せる一等地になってゆく。

当時宇田川町に住んでいた画家・詩人の竹久夢二は、「百軒店で軒別に見歩くのは億劫になった」と、その賑わいを評した。並木橋で創業したライオンが移ってきたのも、この頃だ。

しかし、その後の上野・浅草・銀座の復興とともに「疎開」していた店は去り、そう時を置かずして日本は戦争に突入。「敵性音楽」とみなされていた米英のジャズだけでなく、1943年頃からは同盟国であるドイツ・イタリアの作曲家が多いためか比較的優遇されていたクラシックも、演奏・再生してよい曲目は厳しく統制されるようになるなど、逆風の時代が続く。極めつけは、前項でも述べた1945年5月24~25日の大空襲。この空襲で、店舗自体も全焼してしまった。

創業時と変わらぬデザインで店が再建されたのは、1950年。内装の雰囲気も、再建当時からはほとんど変わっていない。教会のパイプオルガンを彷彿とさせる巨大なスピーカー(店のパンフレットには「帝都随一」と書かれてある)や格調高いインテリアも、メンテナンスは施されつつも当時のままだという。

名曲喫茶は1950〜60年代、まだまだステレオやレコードを買う余裕のなかった音楽愛好家や学生たちに親しまれ、全国に名店と呼ばれる店が数多く存在した。ライオンも1日に200組くらいのお客が訪れる繁盛店となる。戦後に新宿で開業し、野坂昭如、唐十郎、寺山修司にビートたけしらがたむろするサブカルチャーの爆心地として一瞬の光芒を放った「風月堂」がやがてベ平連などの学生運動やヒッピー、フーテンの巣窟と化し、芸術志向の常連客が離れて1973年に閉店していったのとは対照的に、ライオンには比較的穏健な学生が集ったことで、店の質は保たれた(それでも、数年前に改装が入るまではトイレには学生闘士たちの残した落書きがビッシリだったが)。

1970年代に入るとジャズ喫茶も全盛期を迎え、周辺には「DIG」「ありんこ」など、伝説的なジャズ喫茶が次々にオープン。また、1969年に開業し、現在もライオンの隣で営業するロック喫茶「BYG」では、当時「ロックのリズムに日本語を乗せる」という、当時としては画期的な試みを行っていた「はっぴいえんど」や「はちみつぱい」など、現在の日本のポピュラー音楽界に巨大な影響を与えることになるバンドがライブ活動を初めており、次第に百軒店は音楽好きの学生で溢れかえるようになる。

一方、1967年には、それまで小学校があるくらいで他はまだ寂れきっていた界隈に東急百貨店本店が開業。翌年には百軒店をつくった張本人である堤の率いる西武鉄道が宇田川町に西武百貨店をオープンさせ、73年にはパルコも誕生。渋谷の中心は百軒店から駅周辺〜宇田川町方面へと移り、町全体を徐々に消費文化の波が包んでゆく頃でもあった。

渋谷の文化の中心から「周縁地」へと降格することになってしまった百軒店は、お隣の円山町の影響をうけて少しずつピンク街化しはじめる。青春時代を百軒店のジャズ喫茶に入り浸って過ごし、のちにはっぴいえんどやティン・パン・アレイなどのレコードジャケットも手がけたイラストレーターの矢吹申彦は「道頓堀劇場というストリップ小屋があって、道玄坂から曲がると、あそこに入る人と思われそうでいやだった」とも述懐している。

近隣はすっかり歓楽街となっている。(編集部)

そうやっていくつかの狂熱の時代が過ぎ、かつての若者たちも大人になってこの街を去った。その後も渋谷では新しいサービスや価値観が生まれ続け、街の姿も刻々と変わっていくが、そうした変遷の中でも、ライオンはライオンであり続けている。現在も変わらず大音量のクラシックを流し、毎日2回「コンサート」と題して決まった曲が演奏される以外はリクエストも取る。と言っても、なにせクラシックなので自分の頼んだ曲がかかるまでに数十分、混み合っている時には1時間以上はかかるかもしれない。創業当時と変わらず大声のおしゃべりは禁止だし、SNSの時代だろうと店内撮影も禁止。しかし、加速度的に全てのサイクルが早まっていく21世紀の渋谷で、それだけの時間をかけてコーヒーでも飲みながら静かな時間を過ごす「自由」のある場所は、もうこのライオンをおいて他にはないのかもしれない。

現在は2代目店主の奥様が3代目として継承しているこの店だが、すでに現在スピーカーなどのメンテナンスを担当する息子さんが継ぐことが決定済みだ。昭和元年から「次の100年」が経とうとする今を、孤高のライオンは何も変わらず「良質な音楽を聴かせる」という本懐だけを掲げて生き抜いている。

 

【参考資料】

  • 奥原哲志「琥珀色の記憶——時代を彩った喫茶店」河出書房新社 2002
  • 北中正和、あがた森魚他編著「風都市伝説~1970年代の街とロックの記憶から」音楽出版社 2004
  • 戸ノ下達也、長木誠司編著「総力戦と音楽文化 音と声の戦争」青弓社 2008
  • マイケル・ボーダッシュ著/奥田祐士訳「さよならアメリカ、さよならニッポン ~戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか~」白夜書房 2012

 

illustration/竹内俊太郎

 

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