- イベントレポート
渋谷をアマゾン化するには?「リトルアマゾンSHIBUYA」——DESIGNART TOKYO 2024アーカイブ
この100年の間に多くの新しい物事が渋谷から生まれ、時には多くの矛盾や混沌をはらみながらも、希望や意志、または善意によって私たちの社会を「次」へとつなげてきた。
そんな渋谷を彩ってきた「明日の神話」の数々を、それぞれの時代を象徴するランドマークとともに巡りながら、「次の100年」へのヒントを探してみたい。
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JR渋谷駅と京王井の頭線の改札を結ぶ渋谷マークシティ内の連絡通路に、一幅の巨大な壁画が飾られている。縦5.5メートル、横30メートルに及ぶこの作品の名は「明日の神話」。製作者は、かの天才芸術家・岡本太郎だ。
資本主義陣営と社会主義陣営の冷戦によって世界が核戦争の脅威にさらされていた1968年に製作されたこの作品について、岡本太郎はインタビューで「原爆が爆発し、世界は混乱するが、人間はその災い、運命を乗り越え未来を切り開いて行く——といった気持ちを表現した」と語っている。
一度メキシコで散逸しながらも奇跡的に発見され、修復を経て「明日の神話」が恒久的に展示されることとなったこの渋谷もまた、この100年の間にいくつもの神話の舞台となってきた場所だ。
現在の東急の礎を築いた“強盗慶太”こと五島慶太と西武グループの総帥にして“ピストル”と呼ばれた堤康次郎のライバル関係、戦後の闇市の喧騒と広大な米軍住宅、プロレス王・力道山の夢の城にオリンピックの象徴・代々木体育館、パルコが作り出した新たな消費文化の足音、女子高生たちによるストリート文化の隆盛、そしてIT時代の訪れを告げたビットバレー……。
この100年の間に多くの新しい物事が渋谷から生まれ、時には多くの矛盾や混沌をはらみながらも、希望や意志、または善意によって私たちの社会を「次」へとつなげてきた。そんな渋谷を彩ってきた「明日の神話」の数々を、それぞれの時代を象徴するランドマークとともに巡りながら、「次の100年」へのヒントを探してみたい。
1885年に現在の新南口エリア、つまり「100BANCH」のある場所に日本鉄道の駅として開業した渋谷駅は、1906年に国有化、1911年には山手線の駅となり、1916年に複々線化工事が開始。これからの都市化が見込まれていく東京の南西部(当時はまだ大半が農村部だった)のターミナルとして、今から100年前の1917年にはまだ発展の途上にあった。
江戸〜昭和期を生き抜き、日本経済の発展に多大なる貢献を果たした実業王・渋沢栄一とその息子・秀雄が「近代人の理想的な住環境=田園都市」を掲げて田園調布を作り上げ、そして東急電鉄・不動産へと吸収されていくことになるディベロッパーカンパニー「田園都市株式会社」を設立するのも、翌1918年。ちなみに、ほぼ同時の創業となる「甘栗太郎本舗」が、駅前に店を出していた。
現在も渋谷に鎮座する「忠犬ハチ公像」のモデル、帰らぬ主人を10年間渋谷駅前で待ち続けた秋田犬・ハチが生まれたのは、関東大震災が起きた1923年。1925年に飼い主の上野英三郎博士が死去するまで、ハチは出勤する上野とともに渋谷駅に来て、上野の帰りを渋谷駅で待っていたという。そして、上野が帰らぬ人となってからも、それは毎日のように続いた。
1923年当時の渋谷駅 (public domain)
そんなハチが見ていた1923年当時の駅舎は、半円状の飾り窓や煉瓦積みのタワー状の造作など、簡素ながらも趣向を凝らした建物だった。この時点ではまだ駅前の路面、現在のハチ公前広場のあたりをトロリー式の市電が走っていたが、関東大震災以降、それまでの下町や山の手あたりから郊外へと引っ越す人口が増え、渋谷駅の乗降人数が激増するにつれて、風景は変わって行く。
渋谷近辺で幼少期を過ごした作家の大岡昇平も、<駅前が混雑するのは当然だった。中村パンが駅前広場の市電終点に面し裏側の渋谷会館前の通りまでぶっ通した店を建てた。店内を通り抜けられるようにして、乗降客についでに物を買わせる商法を取った。この一劃まで全部取り払ったのが、今のハチ公広場である>と述懐する。(「少年」新潮社 1980)
1927年に東京横浜電鉄(現在の東急電鉄)東横線の渋谷駅が高架駅として開業、1938年には東京高速鉄道(現在の東京メトロ=開業時は東急傘下)開業と、郊外から都心部へと新規路線の乗り入れが増える中、駅舎自体も高架対応、利用客増に伴う設備の拡充などの必要に迫られていった。上野・浅草や銀座が東京の中心であった時代の感覚からすると「西の果ての田舎」だった渋谷は、こうして徐々に東京の西南部を代表する街となり、「都心」を、ひいては都市空間としての東京の境界を再定義するに至る。
勢い、可愛らしい飾り窓が特徴的だった渋谷駅この駅舎も、そう長く生きながらえることはできなかった。外側へ次々に連絡通路や商業施設が張り付く大規模な改修工事が続き、経済の原理によってキメラのように入り組んだ建物と化していくことになる。その間、帰らぬ主人を変わることなく待ちながら、ハチもきっとその様子を見ていただろう。
健気に主人を待つハチの姿はやがて評判となり、感銘を受けた有志によって1934年4月21日、駅前に「忠犬ハチ公像」が建てられ、その除幕式にはハチ自身も出席する。なお、同年11月には東横百貨店(現在の東急百貨店)も渋谷駅にオープンし、現在のJR渋谷駅舎周辺を形作る要素が一応の成立を見た。
その後も上野を待ち続けたハチだが、翌1935年3月8日、路上で死んでいるのが発見される。渋谷川にかかる稲荷橋付近、現在の山下書店の脇あたりであった。花輪25、供花200、手紙や電報も180届くなか僧侶が経を読む人間さながらの葬儀が執り行われ、ハチの遺骸は上野の勤務先でもあった東京帝国大学で剥製にされた。
1936年に行われたハチ公の一周忌法要の模様 (public domain)
ハチ公像はその後、戦争による金属物資の不足を受けて全国的に金属供出が求められる中、多くの人々の保存運動もむなしく供出されることに。その後、列車の部品にするため1945年8月14日——終戦の前日に溶解された。渋谷駅周辺も、渋谷区の77%が焼き尽くされ、死者920人・罹災者147,934人を出した45年5月24日〜25日の大空襲によって、一面の焼け野原となった。
1952年頃の渋谷駅前 (public domain)
現在のハチ公像が再建されたのは、その傷跡もまだ癒えず、付近に巨大な闇市が林立していた1948年のこと。8月15日に行われた除幕式には、ハチの逸話を聞いた連合国軍総司令部(GHQ)の代表も列席した。それから今日に至るまで、めまぐるしく変わりゆく渋谷の街と数え切れない人々の出会いや別れを、ハチ公はここで見つめている。
【参考資料】
illustration/竹内俊太郎