当事者が自らの感覚や言葉を取り戻す。
文化から医療を、そして社会を変えていく。

ILL PARTY
当事者が自らの感覚や言葉を取り戻す。
文化から医療を、そして社会を変えていく。
家族や友人から言われた言葉、忘れられない失敗、受け入れられない別れ、変わりたくても変えられない状況——私たちは生きていると、小さなモヤモヤから大きな苦しみまで、様々なことに直面します。そんなとき、誰にも言えなかった気持ちや、心の奥底に沈んでいた痛みをすくい取ってくれる「ケア」があれば。精神科医を目指す研修医・Kanataが取り組んでいるのは、短歌を使った新しいケアの形を提案するプロジェクト「ILL PARTY」です。
「短歌は、言葉にしにくい感情をそっと掬い取ることができる。誰かの心の奥にある“語れない痛み”を、少しでも外に出す手助けができるかもしれない」
もともと美大を志望し、広告の世界に憧れていた彼が、医学の道を選び、さらに短歌を通じた表現活動に踏み出した背景には、「人の心とどう向き合うか」という問いがありました。精神科医としての視点と、表現者としての視点。その両方を持つ彼が、短歌という手段にたどり着いた理由とは? そして、彼が目指す「ケアの未来」とは。医療と表現の境界を超え、心のケアの可能性を探るKanata Blueの挑戦に迫ります。
——美大志望から医学部志望に、進路を方向転換したと聞きました。面白い経歴ですよね。
kanata:両親が広告業界出身だったので、小さい頃から広告に興味がありました。自分の好きなアイスキャンディーがどんなCMになるだろう、とかを考えるのが楽しくて。広告業界で働くなら、美大に行けばいいのかなと漠然と思っていました。
一方で、幼少期からカウンセラーになりたいという気持ちもありました。広告の仕事をするか、カウンセラーになるかを考えていたら、気づけば高校3年生になっていたんです。進路指導の先生に相談したら、「美大にはまず絵が必要」と言われたのと、それから「カウンセラーもいいけど、精神科医という仕事もあるぞ」とアドバイスを受けました。調べてみると、精神科医は薬を使った治療など、より多様なアプローチができることがわかって、興味を持ちました。
—— なぜ、小さな頃からカウンセラーになりたいと思っていたんですか?
kanata:人の話を聞くのが好きだったんです。それも、かなり重い相談をされることが多くて、「自分の役割ってこういうことなのかな」と漠然と思っていました。子どもの頃は「今、あの人、本当は嫌だったんじゃないか?」と気にするタイプだったので、そういう部分が「人を支える仕事をしたい」という気持ちにつながったのかもしれません。
結果的に医学部に進学しましたが、僕にとっては医者になること自体が目的ではなく、今は「心の治療者」になるためのプロセスの途中にいる、という感覚です。精神科学は、哲学、心理学、薬理学、神経科学、社会学……と、いろんな学問の要素が寄せ集められています。単に医療だけではなく、その人の社会的な背景も含めて、幅広く考える必要がある。そうした多様な引き出しから適切なものを取り出して治療に活かす、という点が面白いなと思っています。
—— 今は研修医として病院に勤務しながら、プロジェクトも進めて……いそがしくありませんか?どうやって時間をやりくりしているのか気になりました。
kanata:病院での経験って、発見の連続なんです。とくに、僕はもともと医者の家系でもないし、急にこの道に入ったので、すべてが新鮮で。病院の中では当たり前のことでも、ドラマのワンシーンになりそうなエピソードがたくさんあるんです。「これ、ちょっと考えさせられるよね」という出来事が日々転がっている。「こんなことが日常なんだ」と驚くことばかりです。
そんなこともあって、「面白いから、それを別のことに活かしたい」と自然に行動しているのかもしれません。日々の発見をプロジェクトに活かしたり、逆にプロジェクトでの気づきを病院の現場に持ち込んだり。違うフィールドを行き来することで、新しい視点が生まれます。
—— ILLPARTYの活動の「ケアを再定義する」というテーマは、どのように思いついたのですか?
kanata:まず影響を受けたのは、医学書院の「ケアを開く」シリーズです。「ケア」を社会に広げていくという発想に強く惹かれました。
医学書院のシリーズ「ケアをひらく」。専門書を扱う出版社ですが、このシリーズは一般の人にも伝わるように編集されており、「ケア」の幅広さや奥深さが伝わるようになっている点にKanataも惹かれたそう。
kanata:その中でも特に影響を受けたのが、熊谷晋一郎先生の『リハビリの夜』です。熊谷先生はご自身が幼少期から車椅子で生活している方なんですが、その経験をもとに「リハビリ」の概念を独自の哲学で語っているんです。当事者でありながら、医療者としてもケアを捉える視点がある。幅広い視点を持つことで、ケアの概念がこんなにも広がるのかと驚きました。
そういうことをプロジェクトのメンバーと話しているうちに、「ケア」はとても大事なものなのに、世の中ではまだ十分に価値が認識されていない、という想いが強くなっていったんです。それをどうしたらもっと広められるか、社会の中でより重要視されるようにできるかを考え、ILL PARTYプロジェクトが形になっていきました。
僕たちの一番の思いは、病気や障害のある人たちがもっと自由に生きられる社会をつくることです。そのためにどんなアプローチがあるかを考えたとき、「ケア」という概念に着目しました。「ケア」とは人を支え、支えられることで生活を豊かにする営みでありながら、目立たないからこそ意識されにくいのが現状です。本来、ケアは誰にとっても身近なものですが、社会の中では十分に語られているとは言えません。
もっと多くの人がケアを「自分ごと」として捉え、語ることができたら、社会の見え方が変わるのではないかと思っています。ケアは一方通行の行為ではなく、関わるすべての人に影響を与えるもの。特定の職業や立場の人だけが担うものではなく、すべての人が当事者であるはずなんです。
そのための一歩として、ケアを単なる「支援」や「サービス」としてではなく、誰もが共有できる言語として再定義することが重要だと考えました。一人ひとりが「当事者性」を持ち、ケアを受ける側としてだけでなく、自分自身の生き方の中で考えていくことが必要だと思うんです。
—— なぜ、それぞれが「当事者性」を育むことが大事だと思うのですか?
kanata:当事者性は、セルフケアのためにも必要だと考えています。たとえば、苦しみを抱えている人がいたとして、薬で40%は解決できる、心理療法で20%解決できるとします。でも残りの40%は、精神科医の手が届かない領域になってしまう。そこから先は、その人がどんな価値観を持って生きるのか、苦しみをどう受け入れるのかという話になってくる。医療や福祉の役割には限界があり、すべての苦しみを解消できるわけではないんです。
—— つまり、その人は残り40%の苦しみを携えたまま、生きていかないといけない?
kanata:治療が終われば、そうなります。医療や介護、福祉などの支援ではどうしても救いきれない「個別の苦しみ」というものがあって、それが実は本人にとって最も大きな問題だったりすることがある。症状が治まったとしても「まだ苦しい」と感じることがあるのは、そのためです。
そうなったときに、ケアを受ける側の人が「どうやってこの苦しみと向き合っていくのか」を自分で考える必要があります。
その残された部分をどうするかを考えるのが「当事者性」だと思っています。もちろん、完璧なセルフケアの方法、正解はない。でも、こうして考えていくプロセスの中で、もう少し楽に生きられる人が増えるんじゃないか。それが僕たちの実験的な試みです。
—— 「短歌」を表現手段として選んだ理由は?
kanata:介護士をしている一人のメンバーが、現場で利用者さんと短歌を一緒に詠むレクリエーションをしたんです。認知が進んでいて普段あまり会話ができない方でも、短歌を作ろうとすると、突然亡くなったご主人の話をし始めたり、昨日のことのように鮮明な記憶がよみがえって、そのやりとりの中から、本来なら絶対に書けなかったはずの一首が生まれることもあるそうで。「表現の手段として使えるのでは?」と提案されて、すごく面白そうだなと思ったのが、短歌をプロジェクトに取り入れたきっかけの一つですね。
100BANCH 2階GARAGEの活動スペースでも、ILL PARTYメンバーが短歌を詠む姿を目撃。詠んだ短歌は短冊のように天井からぶら下がっています。
—— 今は「短歌」を活かしたサービスを、実験していますよね?
kanata:はい。「短歌屋さん」と呼んでいるサービスを展開しはじめています。たとえば、参加者が相談や愚痴を何気なく話している間に、短歌が20首くらい机に並んでいる、みたいな。その場でメンバーが言葉を拾って、形にしていくんです。最初は「短歌?なんか怪しいな」と思っていた人が、自分の言葉が作品になるのを見て「これ、かっこいい!」と感動する。その瞬間がすごく新鮮で、見ていて面白いなと思いました。
インイベントを何度か開催したのですが、イベントの後も短歌を大事にする人がいました。ただの言葉ではなく、詩の形式にすることで、作品としての価値が生まれる。短すぎず長すぎず、ちょうどいい文字数だからこそ、とっつきやすいんだなと実感しました。ちなみに、短歌は31文字で、「世界一短い詩の形式」です。
イベントの様子。
kanata:「短歌屋さん」の面白いところは、プロとかアマとか関係なく、短歌に興味がなかった人でも気軽に詠んで、ちょっと気分良くなる、という体験ができること。それが魅力のひとつかなと思っています。その視点で短歌集をまとめてみて、「プロの作品集」ではなく「短歌に触れたことのない人が生み出した短歌集」として作品化したらどうなるか、という実験もしています。
—— 100BANCHでもILLPARTYメンバーが短歌を詠む姿をよく目撃しています。100BANCHの環境は、kanataさんの考え方にどんな影響を与えていますか?
kanata:僕は、病気や障害のある人に限らず「生きづらさを抱えている人がもっと自由に生きられる社会にしたい」と考えています。そのための道筋はいくつかあると思うのですが、そのひとつは「いろんな人がいていい」と、多くの人が実感できること。日本の制度は優秀で、最低限の生活を守る仕組みは整っています。でも、社会の中で生きづらさを感じる場面はまだ多い。だからこそ、いろんな人がいる100BANCHにいるとすごく居心地がいいし、いろんな人に出会えるのがモチベーションになっています。
—— 「ILL PARTY」では、kanataさんがまとめ役ですか?
kanata:いや、どちらかというと「まとめられ役」です(笑)。リーダーシップというより、言い出しっぺという感じですね。言い出して、あとはみんなに託す(笑)。それでも可能性を感じてくれる人がいるのは、ありがたい限りです。チームのメンバーが本当に優秀なので、むしろ僕の方が引っ張られている感覚です。そういう意味では、お互いが補い合う、いいバランスのチームなのかなとも思っています。
「あれっ、『言い出しっぺ』と『リーダーシップ』、音が一緒だ!(笑)」取材中も小さな発見をたのしむKanata。
kanata:あと、メンバーがみんな、真剣に人と向き合ってくれる。たとえば、短歌のサービスをAI化しよう、みたいな具体的なミーティングの場でも、みんなそれぞれ自分のプロジェクトに本気だから、考えていることが全然違うんですよね。でも、そういう違う視点を持ち寄って話すときに、「本気で向き合ってくれてる」と感じる瞬間があって。
これまでの人生では、そういう経験をあまりしたことがなかったので、今のチームには特別なものを感じています。ただプロジェクトを進めるだけじゃなくて、人としてお互いを大切にしている関係性だからこそ、いいものが作れているんじゃないかなと。
—— 「ILL PARTY」の今後の方向性は?
kanata:愚痴を聞きながら短歌を作る「短歌屋さん」は、リアルな場でのイベントもプレミアムな体験として作り上げていきたいですし、並行して短歌集の出版企画も進めています。
僕個人としても本を出版したいと考えています。さまざまな治療論があることを理解した上で、まだ精神医療にがっつり関わりきっていない、自分のような“半分素人”の視点から治療論を書いてみたいんです。どのような価値観を持って人と関わるのが良いのか。医療者の視点だけでなく、ケアや表現といった多様な要素を織り交ぜながら、これまでにない角度から語れる本を目指しています。もし興味を持ってくれる編集者の方がいらっしゃれば、ぜひ話を聞いてほしいです。短歌を通じて、人の当事者性や生きづらさにアプローチする試みを、もっと多くの人にジワジワと届けていきたいと思っています。
—— 医療と文化活動の両方に関わる中で、kanataさんが大切にしている価値観はありますか?
kanata:僕はまだ精神科医としてのキャリアが浅いし、半分は素人の視点を持っている。だからこそ、どんな価値観で人と接するべきなのかを考えているところです。ただ、医療と文化、どちらにも言えることで一番大切なのは「人を否定しないこと」だと思うんです。どんな状況でも、誰にも他人を否定する権利はない。これは僕自身の価値観とも重なっていて、本当に切実な思いとしてそう思います。
場合によっては、精神科医の仕事は患者さんの思考や行動に介入することもある。極端な話、洗脳や強制に近い行為ができてしまう立場とも言えます。でも、その権利を行使していいのかどうか、僕はまだわからない。ひょっとして100年後には、「精神科医はひどいことをしていた」と評価される時代がくるかもしれない。もしかすると、「病気は病気のままでいい」という考え方が主流になるかもしれない。
だからこそ、精神科医であっても、人の心に踏み込むことが許されるのかどうか、常に慎重であるべきだと思います。特に人を否定することは、やっちゃいけないこと。どんなに悪い人でも、その人の存在や価値を否定する権利は誰にもないんです。
——「ILL PARTY」では、短歌を「当事者が自分の感覚を取り戻し、それを言葉にできるツール」と捉えていますよね。その仕組みが確立されたとき、世の中はどのように変わると考えていますか?
kanata:もちろん、短歌がすべての人にとって万能な解決策になるわけではないですし、世の中のすべての問題を解決するものでもありません。でも、障害の有無に関わらず、誰しも「いずれ死ぬ」という共通の前提がありますよね。
たとえば「うつ病になったら人生終わり」みたいな考えがあるけど、実際は病気の有無にかかわらず、誰もが生きて、いつか終わりを迎える。その事実を受け入れた上で、それぞれが自分の当事者性を表現し、それを活かして生きていく。そういう感覚が少しでも広まればいいなと思っています。
それは、学校で「いろんな人がいることを覚えておきましょう」と教えられるのではなく、たとえば短歌を通じて「こういう生き方もあるんだ」と自然に理解するような、そんな形が理想です。短歌やアートには、そうした気づきを生み出す力があるんじゃないかと。爆発的に世の中を変えるものではないけど、少しずつ、確実に意識を変えていけるものだと思っています。
最終的には、「どんな病気や障害を持っていても、それでいいんだ」と思える寛容な社会になればいいなと願っています。結局、誰もがいつかは死ぬんだから、「まぁいっか」と思える瞬間が増えるだけでも、世の中は生きやすくなるんじゃないかと思っています。
(写真:小野 瑞希)