• イベントレポート

發明の貯蔵庫<INVENTORY>における顕教と密教ー科学を文化の次元で捉える──ナナナナ祭2024を終えて

The 21st Century Da Vinci の發明家のリッキーです!今年で3度目のナナナナ祭。今回も様々な人との出会いと対話がありました。さて今回のテーマである<INVENTORY>とは何を指すのでしょうか。展示物である<イマージュ・ドーム(光のドーム)>との関係性に触れながら、發明の周辺について簡単に解説していきます。

 

 

そもそも発明を問うことの意味とは

そもそもなぜ発明を問う必要性があるのでしょうか。

それは一方にはなぜ現代の発明は科学技術に閉じているのかという疑問と違和感があります。

例えば言語や法律、社会、概念など様々なものが無かった状態から有る状態へと移行したという発明の経験を持つはずです。しかし発明といえばエジソンの電球を代表に何かしらの科学技術の創生だけが発明と見られがちです。ここには<科学技術>ということを前提とした発明しか論じることができないという問題が潜在します。そのためそこには人間の話とか文学の話とか日常の話とか幸せの話とかが包含されないわけです。技術が発明的であればそれは立派な発明として登録される。原子爆弾は発明であるが、非核三原則は発明でないとして良いのでしょうか。そもそも発明が人間を加味せずに成立するのでしょうか。そういった様々な問いを投げかけることが可能なのです。

ですがそれ以前に、<問う必要性>という点にも問題を投げかける必要があります。

現代社会においては何かをするには、そこに意義があるのか、必要性があるのかを強く追求されます。時間的に管理された世の中において、有限の資源を何に費やすのか、そして費やした分以上の新しい資源を確保できるのかという経済原則が社会で前提にされています。ここであらゆる前提が必要性の上で語られていることに注目してください。「必要は発明の母」という言葉がありますが、必要性から生まれた発明はもちろんあると認める一方で(その意味構造を明らかにすることも十分面白いのですが)、必要性以外から生まれた発明もあることに注目してみてください。というよりも、人類の長い歴史の大半は必要性に迫られずに生み出された発明品が多いはずです。例えば火や石器もそうですし、通信やトランジスタもそうです。コンピュータなんかもそうですが、コンピュータを動かす仕組み(論理回路)というのが電気の仕組みと相性が良いことは仕組みが見つかった後に見つかったことです。コンピュータを作ろうとして直ちに仕組みが見つかったわけではなく、様々な発見と発見が新しい発見の元型を想起させた結果です。住宅というのも、はじめから今の住宅の観念(アイディア)があったわけではないはずです。雨風を凌げるものが欲しいなというくらいだったのではないでしょうか。

ここに発明の成立過程の一端を覗くことが可能だと思います。つまり発明には何か大きな流れがあるということです。いきなり突拍子も無いことを言い出したと思うかもしれませんが、これは「なぜ人類は発明を必要としてきたのか」「なぜ人類はそれを発明と呼んだのか」という問いにもつながります。人類は常に何か新しいものを探し続けた。ちょうどスタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』の冒頭のようにある段階までは単なる動物だったはずが道具を手にすることでその様式を発展させてきたのです。ここには<必要性>と呼ばれるような何か目的があってそれに応じた手段を確保するという思考は全く意味をなさないことに注意してください。でなければ、その目的というものはいかにして生じたのかという疑問を投げかける他ありません。さらにそこに目的を生み出す必要性はなぜ必要だったのか、というように永遠とその必要性の循環にはまってしまうことになります。そして先ほどの観念(アイディア)の話のように、雨風を凌げるものが必要という観念が直ちに高層ビルにつながらないことにも注意してください。

全ての発明は今の発明のための生贄なのです。つまり瞬間瞬間に現れる今に向かって過去の発明は集約される。難しいことを言っているように聞こえるかもしれませんが、はじめに言ったように発明は新しいものを志向する方向に向いていることを再度を思い出してください。ということは発明された瞬間にそれは発明から既存に変わっており、既存は発明されること、新しい何かであることを求めているということです。これを私は宇宙の大いなる流れと重ね合わせることで(つまりビッグバン以降の星の誕生から生命の誕生、人間の誕生、そして発明の誕生、それ以降の現在と未来の流れ)現代的な観念に囚われている発明というものを解放し、無限の創造性をひっぱりだろうしているわけです。それは要するに新しい宇宙をつくることと同義です。この目的なく、新しい何かを生み出そうとする大きな力、大きな流れを、<大きな発明>と呼び、その流れの中で産み落とされるネジや椅子、3Dプリンタ、スパコンなどの完成された理念・観念を<小さな発明>と呼んでおります。注意して欲しいのは大きいのが偉いとか小さいのが偉くないとかそういうことではないということです。全ての発明は今の発明のためにあると言えるのですから、小さな発明なくして、今の発明、次なる発明はありません。というより新しくあろうとするその日々の小さなことが実際は大きいのです。

前置きが長くなりましたが、はじめに発明の観念を少しばかりいじりました。発明を問うことというのは、必要性とかを超えて、そもそも我々は何者なのか、なぜ人間は生き続けるのかという問いにもつながります。それらに共通するのは<好奇心>や<探究心>です。人間は常に未知を探し求めているのです。なぜだろう、どうしてだろう、そういう素朴な問いかけが新しい何か、未知を探し求める原動力なのです。これは決して必要性とかの話ではない。常に新しくあり続けるとともに、そこに感動しようとする(印象化する)、万物の原動力です。ちょうど「センス・オブ・ワンダー」とか「情緒」だとか言われているくらいのニュアンスです。庭先に咲く花を見て感動することと、宇宙が誕生することは同じだという感覚です。この感覚は本来人間が持っていたはずなのですが、どこかで置いてきてしまったみたいです。近代以降でしょうか。おそらく必要性とかで物事を考えるようになってからでしょう。この後また解説しますが、仏教における華厳哲学(奈良の東大寺は華厳宗です)に「一塵起こって全宇宙が動く」という言葉があります。そこらにあるひとつの塵に全宇宙があると考えるこの哲学は、その塵が動けば全宇宙動くことと変わらないと考えるわけです。またこの思考は人類をまたがってギリシャからイスラム、中国、極東の日本にまで点在してきたわけです。詳細は後ほど述べます。こうなってくると既存の発明観で物事は見れなくなります。そこにはちょうど人類学のような思考方法が必要です。

ここで発明を問うという行為がどのように位置付けられるか簡単に述べておきます。基本的に人間には思考と実践があるとみて良いでしょう。これを前者を学(論)、後者を術と言います。合わせて学術です。学の術ではなくて、学と術です。思考と実践というのは科学で言えば理論的に検証された正しさというのは実験で検証しなければならないことを指します。重力波というのがありそうだというのが理論的に導き出されても、実験において検証されなくてはなりません。これは現実世界と密接な学問に特有です。これが単なる数学的な表現形式であれば、こういうことが言えました!ということで良いのですが、それはフィクションに止まってしまいます。現実とは異なる、数学という枠組みの中だけの表現形式と見なされてしまうのです。それを実証するには実験が必要になります。ここで勘の鋭い人は、では歴史は科学ではないのか、と指摘することでしょう。歴史は実験できるか、というのは大きな命題です。ここには前提として一般法則・原理が必要かどうかという点が議論されます。物理学では物が1回落ちれば、10回落ちて、1000回落ち続けなければなりません。1001回目で宙に浮いたら困ります(しかしそうなる可能性を否定できるのでしょうか?)。そのため残念ながら今の科学では科学とは別に科学哲学という科学を問うための枠組みを用意し、それで前提を決めた上で論を進めています(今のは経験論に端を発す流れであり、基本的に科学は「自然の斉一性原理」という同じ条件下であれば同じ出来事が起こるはずだという論理を前提にしています、言い換えればこれが変われば抜本的に科学理論は見直されれなければならない、実際同じ条件の範囲をいかにして決めるかなどその適応範囲は議論になります)。そのため歴史学や人類学、人文諸科学はここに条件あるいは構造を見たて、その上で同じような出来事が起きていることを比較検討します。人文諸科学の面白い点はそれだけでなくて、構造を乗り越え、その特殊性だけに専念する場合もあるという点です(同じであるということと同様に特殊であるということも不思議なのです)。ここは自然科学とまた異なった学問のあり方で、一般法則・原理を追求しているわけではなく、分析によってその現象が成立している背景を明らかにしようとしている傾向があります。

さてここに先ほどの大きな発明が導入されます。そうなると一般法則・原理というものは新しいものに変わる可能性があるということです。というより、そもそも発明とは<ないものが生まれる>ことなんですから、一般法則だとか原理というものを決めてしまったらそれは<あるもの>になるわけで、<あるものの中からあるものが生まれる>という理論的な矛盾が生じてしまいます。<ないが生まれる>に向かうには一般法則や原理というものを見直す必要性があります。人類の歴史において発明を位置付ける点では共通しているが、同クオリティの発明を再現可能にするという法則には何かしらの欠損がある、というこのあたりを冷静に検討しなくてはなりません。これはここでは述べませんが発明論の歴史における重要なテーマでもあり、例えばソ連ではGenrikh Altshuller(1926-1998)によってTRIZ(theory of inventive problem solving)という発明的な思考術が開発されました。日本でも戦後のイノベーション技術の成功によって発明法というものがブームになり、現在も発明の本を調べるとだいたいこのあたりのものが出てきます。ここにおける問題は認識の問題であり、ある手法を行えば自動的に発明が行えると考えられてしまっているという点です。再三になりますが、それはある手法で生まれたものであり、ないものが生まれているわけではありません(これらは大概は思考術・アイディア術と呼ばれる部類です)。発明とは何かを考えるにはこの一般法則・原理と特殊的な発明事例を橋渡しする大きな理念が必要になります。

こうなると、抜本的な見直しが必要です。その立て直しはいわゆるパラダイム論(パラダイムとはある種の前提とされる世界モデルである、天動説から地動説へのパラダイムシフトが代表的)として科学論で十分投げかけられてきました。ですが投げかけられた割には現在の科学の方法を見直す動きはあまりみられないように思います。それよりもできれば良いという効用主義的な論理で動き、実際その通り成果を上げているからでしょう。でもその成果、前提を絶対化した、大きな物語における成果です。専門分化による細々とした成果です。だから、もし前提が間違っていたら全て崩れ去るわけです(実際ガタがきているように思えますが)。左右の分かれ道で右に進み続け、崖が見えてきているのに、今までもこっちに進んできたのだからと進み続ける、そんな風に見えます。発明を問うとはちょうどそれらの手順を常に解体して、創造するようなものです(これを創造不断と言います)。それが無の源泉です。

パラダイムを起点とした世界観の構築を秩序(order)と言います。あらゆる世界観はパラダイムを起点として秩序立ちます。代表的なものは法律や倫理でしょうか。世界観は細部に浸透し、ルールや規範を創り上げていきます。この秩序変革を前提をひっくるめて行うのがパラダイムシフトと呼ばれるものです(似たようなものにマルクスによる革命がありますが、こちらは社会をいくつかの構造と階層としてみてその変革を提示しています)。

ここにイノベーションとの関係も記載しなくてはいけません。現代では発明=イノベーションという考え方が一定数あるように思えます。特に戦後成長期において良いものを作れば売れるという考え方は確固たるものになりました。しかしアメリカ企業のマーケティング手法に完敗し、Japan as No1は過去のもととなりました。アメリカはそうしたものの売り方をものの作り方に融合させました。それがソリューションベースのデザイン思考(IDEOのDavid Kelleyによる)と呼ばれるものです。ただこれだけでは世界観ドリブンで社会変革を企てることができません。つねに社会の顔色を伺いながら製品開発を進めるしかないのでしょうか。いくつか異なるマーケティング手法が提示されていますが、概観するにもっと大きなシステムの目で見ないといけないと思うのです。

その発端はTalcott Parsons(1902-1979)による社会システム理論です。その名の通り、社会をひとつのシステムとして分析する理論なのですが、これが複雑広大な社会現象を統一的に理解するひとつの手法となりました。その時期に登場したのがEverett Rogers(1931-2004)のイノベーション普及学(イノベーター理論)です。アイディアや技術の普及を階層ごとの受容とそのシステムとして見た先駆例です。その後、イノベーションを生むのは組織の体質だということでイノベーションマネジメントが生まれまして、Clayton Christensen(1952-2020)のイノベーションのジレンマ(大企業は既存の商品とそれを変えうる新規市場の間でジレンマに陥りがち)やジョブ理論(Jobs to Be Done; 顧客は商品が欲しいのではなくて目的(ジョブ)を達成したい)、組織変革指標のガイドラインである国際規格ISO56002がでてきました。このようなものはどちらかというと経営学とか経営戦略論になります。他にも経済学や情報工学などからこのような価値創造とイノベーション論の研究がされていますが、本論の趣旨ではないのでこれくらいにしておきましょう。これらの前史としてマネジメントならドラッカー、イノベーションならシュンペーターがいるというくらいで良いでしょう。これらが総じてイノベーション論です。

話がだいぶ広がりましたが、注目する点は社会システム理論からはじまったという点です。先にパラダイムシフトという秩序変革を挙げましたが、イノベーションの語源はそもそも「既に確立された秩序に変化をもたらすこと」という意味の古代ギリシャ語 ”Kainotomia”・ラテン語 ”Innovare” (B. Godin, 2020 = 松浦, 2021)からきています。つまり秩序変革です。ですのでシステム論とイノベーション論はその意味が表す通り大変相性が良いものでした。こうなると発明の見通しも広がってくるのではないでしょうか。発明とは同時に秩序を変革する意味を持つということです。従来は発明というのは製品を出せば社会が変わると考えられていました。そうではなくて、ある事物と世界の連関システムにおけるその秩序全体を変えることが発明なのです。はじめの方にもう一つ宇宙をつくるという意味がわかってきたのではないでしょうか。今の秩序とは異なるものをつくる、それが発明です。お分かりの通り、非常に関係論的だと思われます。実際、経営学における発明とは別に科学論側の發明論があるのですが、それらはむしろ関係論的・人類学的に発明を捉えようとしており、非常に納得がいく理論を提案しています(例えばBruno Latour(1947-2022)のANT理論)。

ということでパラダイム論とイノベーション論を経由して、学術の前提を問い直しました。ここで用語の表記方法を変えます。このようにして未分節化(意味を分ける前のこと)された発明概念を旧字体で「發明」<INVENTION>とし、通常の科学技術創生と特許法における発明の未然概念として表します。そして発明と学術を関係させ、前者を「發明論」<Inventology>、後者を「発明術」<Inventio>とします。両者は不可分な関係です。これにより思考と実践を整理して記述ができます。發明論とは論(-logy)の通りlogos、コトバの論理の世界です。つまり思考の世界です。そして発明術とは技術や呪術、印刷術、写真術、映像術、通信術などの術、技や遂行の世界です。つまり実践の世界です。この両者の未然が發明<INVENTION>、つまり現象の世界です。とりあえず理解する手立てとしてはこのようなもので良いのではないでしょうか。詳しい説明はまた展示を参考にしてください。

さて下地も整ってきたところで最後の仕上げです。では具体的にどのようにして發明を問うのかという点です。これまで十分に説明してきたので、もうこれ以上必要ないのですが、ここにもう一つエピステーメという概念を導入します。エピステーメとは認識の枠組みです。時代に応じて特有のエピステーメがあります。中世だと物事を類似として見るエピステーメが支配的でした。この言葉自体は古代ギリシャにあった言葉をMichel Foucault(1926-1984)が新しい術語として仕立て直したものです。パラダイムとエピステーメは似ていますが、厳密には前者は解き方のモデルで(天体の運動を地球が動いていると見ることで解く)、後者は言説のシステム(知のあり方を決定づける時代の認識的枠組み、ルネサンスの類似、古典主義の表象、19世紀の人間)です。なので異なるのですが、支持者・後継者がそれに従うという意味では同じ機能を果たします。ここでは歴史的な条件によって決定づけられる言説のシステムをそういうんだと思ってください。

このフーコーのエピステーメは現代の学問の多くの下地になっています。私的に言わせれば時代を層として見るというところでしょうか。その層にはその層の世界観があるのです。科学がわかりやすいですが、教科書でアルケーやフロギストン、エーテルなどを習った覚えはないでしょうか(習ったというかおそらく教えてはくれません、受験に出ないとかなんとかで、教科書の片隅に追いやられた悲しき發明たちです)。どれも支持されなくなった科学理論ですが、この論法がすでにある世界観、つまり科学の進歩史観を前提としていることに注意しましょう。同様にして、アルケーがある時代はアルケーのある世界観、フロギストンがある時代にはフロギストンがある世界観と、事物がその背後の世界観と密接であることに注目してください。私たちは物事の最小単位を原子と知っています。小さな粒があって、陽子と中性子、その周りを回る電子があると。さて、あなたはそれを見たことがあるのでしょうか。一体どのようにして、いつ、だれがそれを粒だと示したのでしょうか。

実際には原子の世界は雲の世界です。ぼわぁと雲が広がっている、そんな世界です。これを電子雲というのですが、それを確率分布に従ってモデル化したものが今のボーアの原子模型です。さらに言うと、教科書に長岡半太郎モデルというのが出ていたのを覚えている人はいるでしょうか。でっかい球体に小さな衛星のような電子が回っている、いわゆる「土星型原子モデル」と呼ばれるものですが、小中高とボーアモデルで学んできた人に言わせれば、何変なの作ってるんだろう、どうしてこんな勘違いしているんだ、と日本の科学は随分と遅れていたんだなと印象を与えかねない表現がされています。この長岡モデルは画期的でした。先ほど、確率分布に従ってモデルを作ったと言いましたが、そもそも物事を原子、つまり粒の集まりで見るということが先です。物質を混ぜた時の質量の比重の関係を表した結果、あの粒型のモデルが生まれました(その源流には古代ギリシャの原子論がありましたが断絶していました)。なので人類は原子を見る前に、原子をモデルとして構想した、この点に注意してください。原子を見てモデルを作ったんじゃないんです、モデルが先です。そこで電子とか陽子みたいのがあるんだということが真空管を通してわかります。ではその配置はどうなっているのか。その中で例えば陽子の中に電子があるんだと見るトムソンのプラムプディング・モデルがあります。その実験と議論の過程の中にあったのが長岡モデルです。当時は最先端のモデルでした。その後、ラザフォードを経由してボーアといたり現在の原子モデルが与えられます。

ここで示したいのは科学が過去を捨て去り、支持されたモデルのみを正解としている構造です。ここに大きな問題がある。つまり長岡モデルは間違いで、ボーアが正解だった。やがて素粒子が出てくると、ボーアは不完全で層として見ないといけない。

ここから先は、ぜひ次の展示の機会にお話しましょう。

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